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『知ってるつもり 無知の科学』


(ざっくりサマリー)
・人は、多くの場合、個人の知識と外部の知識を混同して、実際よりも過剰に知識があると認識してしまう。
・知性は、個人の頭の中の知識や理解を指すのではなく、それと外部を結びつける力である。また、そのように脳を使うように進化してきた。
・コミュニティに知の共有の貢献をするということゆえに、公に発表することは価値がある。(時に称賛の対象となる)

(マーカーをつけたところ)

世界が正常な状態にあるという認識は、われわれにとって大きな支えとなる。それは情報は世界に保管してあるので、自分ですべてを記憶する必要がないことを意味するからだ。
自らの関心や経験の枠から踏み出て思考することが、人々の思い上がりを戒め、意見の曲単価の極端化を抑えるのに必要なのかもしれない。
科学者が真実と考えることの大部分は、信じる気持ちに支えられている。神への信仰ではなく、他の人々が真実を語っているという信頼である。
教育の一つの目標は、科学者ではない人々にもメディアで目にすることを批判的に見る習慣をつけさせることだ。

(読んで欲しい人)
誰でも(教養として/話のネタとして/ビジネスのインスピレーションとして)。特別な読解力や前提知識を必要としません。

(エッセイ)
「無知を自覚している人が本当に賢い人」「無知の知」といったようなことは実に人口に膾炙していますが、では「なぜ普通人は無知を自覚していないのか」からこの本は出発し、「知」とは何かについて認知科学の見地から分析しています。それは、進化の過程で自分以外の知識も自分の知識として利用できるように脳が発達したからだと考えます。

そのような知見に立てば、そのように脳を自覚的に使うことができます。以下はこれを端的に表現する書籍中の最高にクールな文です。

私の知識には単なる事実だけでなく、 データの所在地を示す「ポインタ(位置情報)」や、後から数字や記号入れるべき「プレースホルダ(空欄)」がたくさん組まれているはずだ。

つまり、知とは外部情報を参照するインデックスのようなもので、それを豊かにすることは、どれだけポインタの先になるべき参照物(情報源)が多くまた多様にするか、そしてプレースホルダに然るべき参照物が入れられるよう頭を整理するかであると言えます。

現代の多くの行為はあまりにも複雑なため、一人の人間が全てに精通できることは不可能です。例えば飛行機を飛ばすという行為一つをとっても、飛行機を設計し製造する人や操縦する人や気象を見る人など様々な専門家がそれぞれの分野の知識を持ち寄って共用する作業にほかなりません。このようにそれぞれの人がそれぞれの分野で活躍できるということは、リカードの比較優位に類似しています。これは知識が財やサービスと同様に流通するものと捉えると良いでしょう。書籍中に出てくるエピソードに、あるカップルにおいて、どちらが金融についてより知識があるかについて互いに自覚していた場合に、知識がある方はその後より知識が増え、逆に知識がない方はより知識が減ったとありました。この場合、後者は金融のことは前者に任せて、その分前者より得手の知識を増すという戦略が(あるいは無自覚のうちに)取られたと考えられます。知識を共有できるコミュニティは効果的に知を活用でき、特にその構成員が持ち寄れる知が多様であればより効果は増します。

このように個人の知をより豊かにするには、自分以外の知識をとことん利用すれば良いわけですが、これを裏返せば、知の源泉となる知識を他人が利用できるようにすることに対してインセンティブが発生するはずだということになります。そして正に研究成果を発表することに金銭的・非金銭的な報酬が支払われるように世界はデザインされています。自分の知識をコミュニティ(閉鎖的なものでも公なものでも)が利用可能にすることは、自分も自分の知のためにコミュニティの知識を利用していることへの恩返しであり、またそれに対して恩返しし合うことを繰り返すことで、人間が協力する種として現代の文化(負の側面も含めて)を築いたと言えるでしょう。


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