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アラ還おじさんのMid Point(3)25年振りのバンド活動【楽しい高校生活】

しばらく更新がありませんでした。今年最後のライブやら何やらあっていつの間にか12月になってしまいました。

さて前回までは高校の入学式の日に軽音学部に入部したところまででした。
高校生活はこれまでの小・中学時代とは見違える程に楽しい楽しい3年間でした。

僕は中学時代まで学校の成績は全く良くなく、また受験や将来の夢なども殆どない、ダメダメな生徒でした。
勉強は出来ない、スポーツもテニス部にいたもののこれまたダメ、女の子になんかモテるわけもなく。そしてちょうど僕が中学時代は全国的に校内暴力が蔓延していた時期でした。
でも僕は勉強はダメだったので優等生にもなれない、かといって体も大きくなく、喧嘩も強くないので所謂ワルグループにも入れない、何の取り柄もない、目立たない中途半端な生徒でした。
ですから、高校も中堅の公立高校、私立工科系大学の附属高校、そして中〜低レベルの滑り止めの私立高校の3校を受験しましたが、見事に滑り止めの私立高校だけ合格しました。
担任からも新設の公立高校の2次募集の受験を勧められましたが、もうこれ以上試験を受けたくないのと、新設校には行きたくなかったのでとりあえず唯一合格した私立高校に行くことにしました。
この選択がその後の僕の人生を大きく変えるきっかけとなりました。

その滑り止めの私立高校ですが、僕は普通科に入りました。この学校はもともとは商業高校であり、その後工業科、そして普通科も併設されるようになりました。
そのためか商業、工業、普通の各科の個性的な生徒が集まる大変特徴的な学校でした。
決して偏差値の高い高校ではなく、工業科には所謂「ヤンキー」がウヨウヨしておりましたが、このヤンチャな奴らもとてもいい奴だらけで、その後3年生になるまで僕は彼らとの楽しい交流ができるようになってゆきました。

※母校は僕が大学を卒業して就職してからしばらくして普通科だけとなり、今では県内の中堅ではありますが特進コースも有する進学校になっております。
今、僕が受験したらきっと不合格になること間違いないようです笑


さて、軽音学部に話を戻しますが、この軽音学部はロックからフォークまで幅広いジャンルを演奏するグループや個人が幾つか集まった部活でした。
僕らが入学した同期から約10数名が入部し、そのうちで半数以上が女子だったというのが、軽音設立以来初めてだったようです。
そのため、軽音部の中は大変活気があること、また体育会系部活と異なり、厳しい上下関係も殆どなく、先輩や同級生の部員達は僕のことを下の名前で呼ぶようになりました。これは僕にだけでなく、全員下の名前で呼び合う(先輩には基本「さんづけ」ですが、これも下の名前で親しみを込めて呼んでおりました)という、これまでの中学生活では考えられないようなシチュエーションでした。

夏は恒例の合宿を長野県の北志賀のスキー場近くの宿泊ロッジで行っており、夏の閑散期にドラムやアンプなどを備えた宿泊所でひたすら昼はバンドが交代で入れ替わり練習をし、最終日の夜に発表会を演るのがお決まりでした。
もう約40年も経過し、今や時効ですが夜は酒盛り・大宴会でした。引率の顧問の先生たちも見て見ぬふりをしていましたね(勿論、先生方は宴会には参加しておりませんでしたよw、時効、時効w)。

高校に入ってからの僕は色んなバンドやユニットから誘われました。特にギターが上手いわけでもなく、速弾きや超絶テクニックを持っているわけでもなく、むしろサイドギターやリズムギターをやりました。何故なら当時コードに詳しい者が部内にも少なく、僕はクラシック上がりでしたが、両親にエレキギターを買ってもらって以来、入学までの間、ギターコードブックを買ってひたすらコードの押さえ方を覚えたことがこのように重宝されたと言うわけです。

夏合宿で1学年上の「アツシさん」と二人で2曲ばかり曲を作って、発表会で披露したのが一番最初のバンド経験。詞は「アツシさん」が英語で適当に作って、主に僕がビートルズの後期ナンバーぽい適当なメロディを作る。どんな曲だったかはもう思い出せないけど、こんなに音楽を作るのは楽しいことなんだ、と初めて感じた瞬間でした。

その後、秋の学園祭で矢沢永吉のコピーバンドに誘われてギターとコーラスを担当、更に同じ普通科クラスの「長州(あだ名:長州力に似てて、何時もリキ・ラリアットばかりやっていた奴)」に当時流行っていたホール&オーツのコピーバンドに誘われました。そこではリードギターとコーラスを担当。ベストヒットUSAで見ていた曲をまさかやるとは思いもよらず、「長州」からカセットテープを渡されてひたすら曲を覚えました。「Man Eater」「Kiss On My List」「Private Eyes」などをやったかな。

しかし「長州」は2年生の時に突然学校を中退しました。
そのため、バンドを組める相手がいなくなり、2年時の学園祭にはアコギ弾き語りで長渕剛をやりました。この時にハープ(ハーモニカ)を吹きながらギターを弾く技をこれまた適当に身につけて、以降3年生まではソロでの活動を行いました。
この時は「巡恋歌」「俺らの家まで」「順子」「Good-bye青春」などをやりましたね。

更に珍しい出来事でしたが、高校2年時、突然YMOのコピーバンドに誘われました。このバンドは僕の通っていた高校から前出の「アツシさん」と僕、そして周辺の幾つかの高校から数名。当時通っていた学校の最寄駅近くの楽器店のスタジオで3曲程演奏しましたが、その後このバンドで演奏機会はこれっきりでした。しかも僕は弾けない鍵盤をやりました。
確か「東風」「ライディーン」「中国女」だったかと記憶しております。
しかし、何故僕が誘われたんだろう?今も全く覚えがないです。

さて、高校時代は軽音部だけでなく、生徒会活動も何故か行っておりました。1年の終わりに近い2月に書記となり、2年の終わりに前会長から引き継いで生徒会長になりました。
中学時代まで勉強もスポーツも何も出来ない取り柄のない僕が生徒会長までやるとは全く予想も出来ない展開でした。
学園祭や夏の野球応援など各種様々な行事の運営は工業科(機械科)にいた「キヨタくん」に実行委員長として活躍してもらいました。彼は見た目は完全な「ヤンキー」でしたが、僕からの指示を受けて、彼の配下にある機械科、電気科、建築科、商業科の連中をほぼほぼ抑えてもらい、生徒会活動に全員参加・協力してもらえる土壌を作ってもらいました。
それだけでなく、生徒会顧問をはじめ教師達への働きかけも彼をはじめ生徒会の執行部や各委員会メンバーが惜しみなく協力してくれました。

高校3年間は大変充実した日々が過ごせたと思いますし、僕は卒業後は大学に進学することになります。

時代は80年代後半、日本はバブル経済に酔いしれてゆきますが、僕自身はバブルの恩恵を世間の人程受けることなく、大学に入ってからも音楽とは切っても切れない日々を過ごすことになります。

<(4)に続きます>

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