見出し画像

アラ還おじさんのMid Point(5)25年振りのバンド活動【ライブハウス出演、苦闘の曲作り】

1989年11月、僕は友人のバンド「Loose」の脱退したベーシストの後任として加入しました。
同年12月と翌年2月のライブに出演し、赴任先の影響も全くなく、そのままバンド活動を続けることが出来るようになりました。

「Loose」は僕の加入後、正式に「スーパーる〜ず」とバンド名を改めて活動を続けることになりました。
会社の入社式を控えた1990年4月1日は日曜日、その日も僕らはバンドの練習のためスタジオに入っておりました。
以降、概ね3ヶ月おきの都内ライブハウスでのライブのため、練習と曲作りに励んでおりました。

当時スーパーる〜ずの作詞作曲はボーカルのAさんが担当しておりました。
彼はギターは弾けたもののコードはあまり詳しくないため、新曲が出来ると彼の歌に合わせて僕がコードをつけ、また彼の要望(イントロのメロディーやブレイクなどの指定)を聞いた上で、僕が編曲を担当しました。

編曲といってもバンドはMIDIでの打ち込みありきでの演奏でしたので、打ち込みの土台を作りながらアレンジしてゆくスタイルでした。僕はコード譜だけは作り、これに合わせてドラムマシンでリズムのベースを作り、ここにキーボード、ストリングス、ブラスなどの音を被せてゆく地道な作業が必要でした。

以前、鍵盤楽器は幼少期の影響で苦手であり嫌いでもありましたが、ピアノなどは片手ずつ弾いて、重ねてゆくことでそれらしく聞こえるようにしたり、ストリングスに関しては知識は無いにせよ、第一・第二バイオリン、チェロ、ヴィオラのパートをそれらしく聞こえるように作ったり、ブラスも如何にもシンセではなく、どうやったら本物のブラスっぽく響かせるかをひたすら研究して、打ち込んでおりました。
ただ、打ち込みは鍵盤でフレーズを弾き重ねる手法をとっていたため、一曲を仕上げるために徹夜になるほどの長時間を要しました。
当時はPCも高価であり、且つRAM容量が少なかったので、今のように手軽に容易にプログラミングで行うことができず、家内制手工業的な職人技でこういったものをやっておりました。
技術革新がもっと早く起こっていれば、意図も簡単に出来たのかもしれませんね。
いずれにしても僕らも当時はまだ若く、全員独身だったので時間もいくらでもあり、余裕で徹夜での作業が出来たというわけです。

さて、肝心のバンドの演奏ですが、打ち込みがあるが故の弊害も多くありました。
その一つがリズム隊のグルービングが落ちるということ。
ドラムのKさんはスーパーる〜ず加入前はフュージョン系のインストバンドで長く活動しており、その前は洋楽のコピーなどをやっていたと聞いておりました。当然のことながら打ち込みと合わせての演奏は経験なく、クリック音をヘッドフォンを装着して聴きながらの演奏には大変なストレスを感じたと常々語っておりました。
僕も同様に打ち込みに合わせて演奏する経験がなかったため、大変戸惑いました。ドラムに合わせるとバックの打ち込み音とズレるし、かといって打ち込み音に合わせるとドラムとズレる。僕自身もこのバンドの活動期の最後の最後までグルーブやビードのズレには悩まされました。
もう一つは打ち込みに頼るが故に生演奏ができないという弊害です。
キーボード(というかマニュピュレータの役割を果たしていた)のHさんは楽器の演奏経験が全く無いままにこのバンドにお手伝いのような形で加入したという経緯がありました。時々キーボードのフレーズは弾くものの、リズム楽器となり得るピアノなどのパートは全く弾くことができなかったので、ここでもバンドのグルーブ感が出せないことと、生演奏が出来ないが故、アドリブが全くできないというバンドとしての欠点を露わとなるような形態でありました。

更にはもう一人のサイドボーカルのTさんは当時付き合っていた彼女との交際が原因でバンドへの興味が薄れ始めたためにバンドの練習も欠席する頻度が増え、メンバーを抜けることになりました。メンバーも更に抜けて演奏ともに手薄になったのです。
結局、僕がサイドボーカルやコーラスもやることになりました。また、ベースを打ち込みにしてギターを手にすることもありました。
本音を言うともう一人ギタリストをスカウトしたい気持ちもありました。そうすれば打ち込みを使わないこともできるかなとも考えました。
でも作曲者であるAさんは打ち込みの音(特にストリングやブラス、シンセなどの装飾音)への拘りが強かったようで、打ち込みを無くすこと自体は難しいだろうなあと当時は思っておりました。

所謂「擬似カラオケ」に合わせての演奏には大変な限界があったのではないかと思います。勿論、演奏者の実力があればメンバーを増やして生演奏にしてしまえば良いんだと思います。それが一番だと思いますが、30年以上経って振り返ってみれば、メンバーの絆というか、これ以上の他人を寄せ付けないような雰囲気がバンドにもあったような気がします。

僕らのバンドの欠点や弱点には恐らくメンバー全員が早くから気づいていたかもしれません。少なくとも僕とKさんは早々からこれらの問題をいつも練習後のミーティング(といってももんじゃ焼きを食べながらビールをひたすら飲むという場)でも勢いで話してはいたものの誰一人として解決方法を全く見出せないままの状態でした。

それでもAさんの創作意欲の高さ故、そして僕のアレンジャーとしてのほんの僅かな腕の向上と忍耐力により、レパートリーはどんどん増え、活動初期の3年程で60曲程度までストックされました。

曲をストックし、練習をしつつ、ライブもほぼ3ヶ月ごとに開催するという活動。
ライブは新宿の東京厚生年金会館斜向かいに今もあるヘッドパワーという箱に出るようになりました。此処はデビュー前後のプリンセスプリンセスなども出演したというプロ登竜門のライブハウスとして有名です。
僕らは主に昼の部に出演しておりましたが、時々夜の部の一番目に出させてもらうこともありました。一番目の方が逆リハであり、キーボードや音源など機材が多い僕らにとってはそれが一番やりやすかったのです。

こうしてメンバー全員会社勤めをしながらバンド活動を続けておりましたが、バンド活動が2年を過ぎたあたりからさまざまな事件により、苦境に立たされることになります。

<(6)に続きます>

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?