見出し画像

ジュリアン・アラフィリップという男

ドゥクーニンク・クイックステップに所属するパンチャー、ジュリアン・アラフィリップは、長い間マイヨ・ジョーヌに手が届いていないフランス自転車界に唐突に現れたスーパーヒーローだった。

サン=タマン=モンロンに住む音楽一家に1992年に生まれたアラフィリップは13歳で自転車を始め、ほどなくしてフランス国内のジュニア世代のレースで活躍し始める。シクロクロスのフランス選手権(U23)を優勝などしているうちにベルギーのコンチネンタルチームからスカウトを受けて、プロに繋がるキャリアが始まった。

アラフィリップが自転車ファンの耳目を集めるようになったのは、2015年。プロ生活2年目のことだった。春先のクラシック、フレッシュ・ワロンヌで2位、そしてモニュメントであるリエージュ・バストーニュ・リエージュでも2位になるという快挙を成し遂げた後、ツアー・オブ・カリフォルニアでは、かのペテル・サガンを向こうに回して登ってよし、スプリントよしの大立ち回りを演じる。

翌2016年、その年のツアー・オブ・カリフォルニアで総合優勝を達成した実績を引っさげて、いよいよツール・ド・フランスへ。ティボー・ピノ、ロメン・バルデに続く若きフランス人エースとして鳴り物入りで参戦した。結果は総合41位、ヤングライダー6位。数字的にはパッとしないものだったが、徹頭徹尾熱い走りを見せ、第16ステージではトニー・マルティンと大逃げを決めて敢闘賞を獲得するなど、その存在感を十二分に見せつけた。

2018年シーズンのアラフィリップは、一流自転車選手にとってもキャリア・ハイと言っていい、輝かしい成績を収めた。フレッシュ・ワロンヌやクラシカ・サンセバスティアンといったワンデーレースで優勝したことのみならず、ツアー・オブ・ブリテンやツアー・オブ・スロバキアといったステージレースでも優勝し、超万能型オールラウンダーとして世界に名を轟かせた。

その年のツールでは、持ち前の闘争心を持ってあらゆるステージで果敢に攻めた結果、大方がまったく予想だにしなかった山岳賞(maillot blanc à pois rouges)を獲得してしまった。これだけスプリントに強い選手が山岳の王となったことに、フランスのみならず全世界の自転車ファンは震えた。チーム・スカイが盤石な王朝を築く2012年以降の退屈さの中に、一筋の熱い光を見た。

2019年。この年もストラーデ・ビアンケを皮切りにミラノ・サンレモ、フレッシュ・ワロンヌとワンデーレースを勝ちまくり、ツールの前哨戦であるクリテリウム・ドゥ・ドーフィネでは山岳賞を獲得。ステージレースでも十二分に戦える仕上がりを見せた。

そして、ツールを迎えた。

ドゥクーニンク・クイックステップはスプリンターにエリア・ヴィヴィアーニを据えたように、あくまで区間優勝を狙うチーム編成だった。一応の総合エースとして去年のブエルタで好成績を納めたエンリク・マスを置いたものの、アラフィリップ自身のミッションも、パンチャーとして狙えるステージを狙っていくというものだった。

ところが、第3ステージで区間優勝を遂げたアラフィリップはその時点で総合1位となり、2014年以来久しぶりにマイヨ・ジョーヌに袖を通したフランス人となった。すぐに総合系ライダーに首位を明け渡すことになるかと思いきや、第6・7ステージでトレックのチッコーネにマイヨ・ジョーヌを譲ったものの、第8ステージではすぐに取り返し、マイヨ・ジョーヌを着たままピレネーの山塊を越えた。時には自らアタックを繰り返し、熱くて勇敢なマイヨ・ジョーヌの姿を世界に見せつけた。

ピレネー越えの合間に設けられた個人タイム・トライアルでは、前年のツール覇者、ゲラント・トーマスを押さえ、最速タイムを叩き出してなんとステージ優勝してしまった。一般的に大柄な(=パワーの絶対値が高い)ほど有利なタイム・トライアルにおいて、しかもタイム・トライアルが得意な脚質ではないにも関わらず、173cmのアラフィリップが勝ったことは奇跡としか言えなかった。ましてや、183cmのゲラント・トーマスは、オリンピックのトラック競技で金メダルを取ったくらいにはタイム・トライアルが得意であるのに。

マイヨ・ジョーヌ・マジック。破竹の快進撃だった。久しぶりに、しかも予想外に現れた自国のヒーローに、フランスは湧いた。バルデさえ若者の知名度を得られないくらいに、自転車競技のプレゼンスが落ちていたフランスだったが、アラフィリップの活躍は毎朝紙面に踊った。その日が終わった時点で総合首位の者に与えられるライオンの人形は、もう両手では抱えきれない量となった。オーディエンスは熱狂し、写真をせがみ、歌をがなり、熱き勇敢なヒーローを讃えた。そして自転車ファンは固唾を飲んで、フランス人ライダーが34年ぶりにシャンゼリゼの表彰台の頂点に君臨する瞬間を待っていた。

しかし、神は安易な結末を許さなかった。

アルプスの初戦である第18ステージまでマイヨ・ジョーヌをキープし続けたアラフィリップだったが、第19ステージで波乱が起きる。大会の最高峰地点であるイズラン峠の登りで、アラフィリップはライバルたちが牽引する列車からちぎれて少しの遅れをとった。その隙をついて、イネオスの若きエース、エガン・ベルナルが頂上に向けて猛然とアタックする。

いつものアラフィリップであれば、そのあとに控える得意のダウンヒルで挽回しうる程度の遅れだった。しかしこの日は違った。フィニッシュに至るコースの途中で突然の嵐が起き、雹と土砂崩れにより通行不能となった末、レースはイズラン峠の頂上で突然終了した。すなわち、イズラン峠の通過タイムが総合成績にそのまま反映されることとなり、アラフィリップは峠を首位通過したベルナルにマイヨ・ジョーヌを明け渡すことになった。突然の出来事だった。

首位ベルナルとの差は48秒差。その約30秒後ろにはベルナルのチームメイト、ゲラント・トーマスが迫っている。この天候不良の影響は翌20ステージまで尾を引き、なんとたったの59kmという超短距離で全てのケリをつけることとなった。

59kmで48秒差をひっくり返すことはかなり困難に思えた。しかも、グランツールを勝つことに特化したチーム・イネオスとは違い、ドゥクーニンク・クイックステップはあくまで区間勝利を狙う布陣。この局面から勝つための駒が圧倒的に足りない。数少ないオールラウンダーである当初の総合エース、エンリク・マスは骨身とプライドを砕いてマイヨ・ジョーヌのために働いてきたが、それももう限界だった。

それでもアラフィリップと、そしてフランスは諦めなかった。チームのサポートが得られない中、アラフィリップは歯を食いしばってイネオスの揺さぶりに耐え、オーディエンスは気迫を込めて応援した。あの熱い走りでもう一度栄光のマイヨ・ジョーヌに袖を通す瞬間を夢想した。

しかし、やはり破局は訪れた。残り13km地点で、モヴィスターのマルク・ソレルが猛烈なアタックをしかけ、それにチーム・イネオスが反応。総合4位であるユンボ・ヴィスマのクライスヴァイクと5位であるボーラ・ハンスグローエのブッフマンも追随する。アラフィリップは・・・ついていけなかった。歯を食いしばって挽回しようとするも、プロトンとの差は開くばかり。レースは途中だったが、全ては終わったのだった。

みるみるうちにマイヨ・ジョーヌのプロトンと3分差が開く。先頭を独走していたヴィンチェンツォ・ニバリがステージ勝利を挙げ、バルベルデやランダ、そしてベルナルとトーマスとクライスヴァイクとブッフマンがそれに続いてフィニッシュする。そこから遅れること約3分。アラフィリップは鬼神のような表情で26位でゴールした。総合順位はベルナルと3分45秒差の第5位に陥落し、シャンゼリゼの表彰台さえ失った。アラフィリップとフランスの夢は、アルプスに散った。

ジュリアン・アラフィリップは1992年6月11日生まれの27歳。まだまだ自転車選手としては若く、未来は明るいことは間違いない。登れて踏める底なしのユーティリティは、ツールの表彰台から陥落してもいささかも毀損されない。

しかし、来年以降のツール・ド・フランスでアラフィリップが同じようなことができるかと聞かれれば、僕は多分できないと思う。

現実問題、イネオスを率いる名将デイヴィッド・ブレイルズフォードが今回のような失態を2度も許すはずがないし、万が一アラフィリップがイネオスに移籍したとして、おそらくその役割はクラシックのタイトル狙いとクリス・フルームの護衛だろう。

だがそれ以上に、あんな走りが二度も出来てたまるかという嫉妬にも似た不思議な感情に襲われている。あんなに強く、勇敢で、そして刹那的な走りが二回もできるわけがないと。いつまでも心の中に鮮烈で鮮明な映像として留まって、決して更新されることがあってほしくないという歪んだノスタルジーを伴って、アラフィリップの雄姿はまぶたの裏に何度も現像される。

破滅型のヒーローがもて囃されなくなって久しい。しかし、散り様の美しいヒーローは今日においても最大級の尊敬を集める。チーム・イネオスが展開する論理的な強さも好きだ。それでも、アラフィリップの理屈ではない、途方のない、熱さは。僕はまた少し、自転車ロードレースが好きになった。

-------

2019年7月28日、午後10時ごろのパリ。シャンゼリゼ通りのど真ん中に設けられたステージでは、今年もツール・ド・フランスの最後の表彰式が盛大に行われていた。夕日が沈む直前のトワイライトに凱旋門が照らされた、嘘みたいな光景を全世界のロードレースファンが愛でていた。

表彰式の途上、一際大きな歓声を受けて、アラフィリップがポディウムに上った。フランス人もコロンビア人もなく、全員がアラフィリップを讃えていた。しかし、4賞のいずれにもあてはまらず、しかも総合5位のアラフィリップは本来、ポディウムに上がる資格はないはずだった。

アラフィリップが第21ステージ走っている途中、ASOはアラフィリップに今回の「スーパー敢闘賞」(Prix de la combativité )を与えることを発表した。有り体に言って、その大会で最も印象に残る走りをした選手に贈られる賞で、公式発表に先立ってTwitterで行われた一般投票でも、アラフィリップはぶっちぎりの票を集めた。パリ中心部での周回になってなお、チームのスプリンターであるヴィヴィアーニのために、プロトンを牽引するガッツを見せた。

大歓声の響く夜の帳が開き始めたシャンゼリゼで、アラフィリップは誇らしげに「1」と書かれた赤色の盾を持って声援に応えていた。

画像1

(c) 2019 BettiniPhoto

ドゥクーニンク・クイックステップに所属するパンチャー、ジュリアン・アラフィリップは、長い間マイヨ・ジョーヌに手が届いていないフランス自転車界に唐突に現れたスーパーヒーローだった。スーパーヒーローは最後まで熱く走り、見事に散った。

ヒーローがマイヨ・ジョーヌを着ている間、フランスは見果てぬ夢に踊った。しかし最後にその夢は醒めて、そしてマイヨ・ジョーヌが最終的にフランスにもたらされる夢は叶うことがなかった。

それでも、アラフィリップは自転車ロードレースが持つ根源的な魅力を現代的に体現し、より深みを加えて歴史に名を残した。その力強いペダリングに、今後も引き続き栄光が当たることは間違いない。

史上最も暑い夏に消えていった、フランスの夢に献杯。
そして、スーパーヒーローがいた、この熱い夏に乾杯。

Viva la France, Viva le tour.

より長く走るための原資か、娘のおやつ代として使わせていただきます。