見出し画像

「喜びの共有」じゃなきゃダメな理由

「喜びを共有しよう!感動できる!」という言葉が好きだ。
自然の中で出会った生命とインタラクトできる素敵な言葉だ。
しかしながら、そんな話をしていたらある友人に
「なんで感情の共有じゃダメなの?」
と聞かれた。
確かに、ヒトやイヌ、ネコなんてものは感情で動くことが多いし、人として普通に生きていたらそれだけで十分な気もする。
でも、アリに感情はあるのか?夏の路上で蚊柱になっているユスリカは?私が不注意でインキュベータを壊してしまった時、n-DAMO関連菌は悲しんだだろうか?
部分的にはそうかもしれない。
しかしながら、せっかく目の前に食べきれないほどの世界が広がっているのに、甘んじて一部しか手をつけないなんて勿体無い。
ヒトとイヌを結びつけ、ネコをアリと結びつけ、これら四つの生き物をユスリカと結びつけ、そのユスリカをn-DAMO関連菌と結びつけるパターンとは?
ヒトがクラブに集まるのと、ユスリカが蚊柱になることのどこに違いがあるだろうか。
イヌが庭で駆け回り、猫がこたつで丸くなるのは同じことではないのか?
感情は環世界の一部分しか映し出さないが、喜びは環世界そのものだ。
だから、「喜びの共有」なのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?