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「なぜレースの写真を撮るのか」vol.1

先日、御殿場と東京にて、所属するアマチュアモータースポーツ写真クラブの写真展があった。両方とも自分自身の作品も展示した次第、御殿場では設営・撤収はお任せした。

ありがとうございます。

今回も過去作品を含めての展示。卒制後であったため、バタバタの中での準備で、色々な行事とも被っているが、仕方ない。昨年の写真展のポストカードは自分が担当したが、今回は他のメンバーの方。

SUGO1コーナー

これは一昨年に出展した写真である。SUGOの1コーナーからスタートを狙った。個人的には、やっぱりSUGOからの風景が一番良いと思う。ここからボーッと、山並みを見ながら1杯やるのも(ノンアルコールで)いいだろう。

と、色々と撮影した写真を振り返り思う。
これはモータースポーツの写真なのか?と。色々な写真があってしかるべきであるのは大前提だ。クルマが写ってなきゃならない、流れていなきゃならない、スポンサーがしっかり写って、など決まった事は無いはずだ(メディアとして、記録として、レースレポートとして、使える素材としての写真はまた別の話)。残念ながら、こうでなければならない、といった偏った認識を持った人は少なからずいる。大きい声を上げていなくても、そのような考えを持った人間は、最近は雰囲気からもよく分かるようになってきた。そこは自分の持っているアンテナが成長したからなのだろう。

そして最近、「なぜレースの写真を撮るのか」という事について聞かれ、考える機会があった。そういえば今まで深く考えた事はなく、そしてあまり自分の写真作品について述べることはしないのだが、改めて考えるとなかなか言語化出来ないことに気付いた。

今はありがたいことに、写真クラブが担う年数回のインタープロトシリーズ・KYOJO CUPのオフィシャル撮影に携わらせてもらっていて、少なくともお金を頂いて撮影している案件である。現場に行けばプロもアマチュアも関係なく、同じフィールドにいる以上は、プロとして見られているだろう。仕事としてレースの写真を撮る機会もある反面、趣味としてずっとレースを撮っていた。写真クラブにも入り、年数回の写真展をおこない、作品を発表する機会もある。今後、自分の作品を発表していく機会も増えるだろうし、お金を頂いて撮影することも増えるはずだ(増えなきゃ困る)。
フォトグラファー・カメラマン(セミプロ?)という肩書も、今後ある程度使える状況にもなった今、果たして自分はなぜレースの写真を撮っているのだろうか。これはモータースポーツ写真とは何か、という事にも繋がっていくはずだ。

何人がこの文章を見るかは分からないが、これを機会に考えた事を脱線しながら書いてみよう。
長くなるかもしれないので、2つに分けるかもしれない。


2021年MFJ全日本ロードレース選手権シリーズ J-GP3 Race.1 岡崎静夏 選手

●「なぜレースの写真を撮るのか」 

それについては、明確な答えを持ち合わせていないのが自分の回答である。大義名分として、モータースポーツが盛り上がるように、SNSそのほかで自分の写真を観て頂き、少しでもその一端を担う事が出来たら、等という広報活動的な理由はすぐに浮かぶ。F1速報やオートスポーツの雑誌に載る写真を見て、モータースポーツの写真をカッコよく撮りたい、こんな写真を自分でも撮ってみたいと思ったのは確かであるが、よくよく考えてみると、自動車レースに興味を持ち、観ていくうちに写真も好きになったという事で、モータースポーツを撮るのは流れとして自然なことであり、あえて言うならば「そこに自動車レースとカメラがあったから」ということに尽きる。もし戦闘機を好きになったなら、今頃は全国の航空祭を周り、F15イーグルやブルーインパルスを追いかけていたかもしれない。

ここで何を表現したいか、何を伝えたいかという問題が出てくる。これは非常に難しく、常に模索をしている最中だ。まあ、写真を撮る多くの人間がそう感じているのかもしれないと思う。自分の中で、果たして前述のようにクルマ・ドライバーをカッコ良く撮りたい、モータースポーツのかっこよさを伝えたい、などの一つの文章で言い表せるのかどうかは疑問だ。それはただ単に、カッコいいですね、綺麗ですね、イイですね、で終わってしまうことを懸念しているし、そういう状況を様々な場所で感じてきているからだ。

我々多くのアマチュアは何を表現しようとしているのだろう?お金にもならない、ましてやチームに頼まれて写真を撮っているわけではない。それは独りよがりな自慰的行為に等しいのだろうか?自分の中で満足できるような、自己完結型の写真でいいのだろうか?何を我々はやりたいのだろうか。

プロの方々の写真はすごいと感じることが多い。写真の背景にある人間模様、ドライバーの息づかい、チームの喜怒哀楽・・・すべてが1枚の写真から見えてくるようだ。でも多くは、メディアとして、お金をもらいながらチームやドライバー、クライアントから依頼されて写真を撮っている。広報として、クライアントそれぞれの要望もあるし、使える写真を撮らなければならない。半流しやバイクやクルマが小さくスポンサーも見えないような写真は、果たしてレポートに使われるだろうか?でも、そういう要望があれば別だ。全てはクライアントに依存する。

それも含めて特別な場所から撮影をしている。数をこなし、実際のレース現場の近くに常にいるから、サーキットの空気感と共に被写体に迫って迫力ある写真も撮れる。それだけ見える世界は全く違うし、観客とは違った立場で、レースの世界に関わっている。

しかし、優位とは思わない。様々な制限がある事は言わなくても容易に理解できるが、自由に時間制限も無く、自分の思うように好きなように撮影出来るのはアマチュアの特権だ。バランスを考えれば、どちらも善し悪しはあり、そういう意味では、プロもアマチュアも常に同じフィールドにいるということになる。

メディア、報道のスタンスは、また表現といったら違うだろう。

Mercury 車楽人 VALINO

では、自分はどんな事を考えながら撮っているかを改めて書くならば、モーターレーシングの世界の非日常の空間 ークルマ、ドライバー、観客、RQ、サーキットその他…全てがモータースポーツであり、非日常ー に居る中で、どこか非現実的な、超現実世界であるこの空間を、ヘテロトピアとして目を向けながら、それを写真の奥底から感じとることが可能であるような写真を目指し試行錯誤している、ということだろうか。

具体的にどういう写真なのかは、なかなか挙げられない。

また、写真の持つ記録性という観点から、自分は写真というメディウムを使って、〈自分がここに確かに居る〉という事を確認する行為を無意識のうちに行っているのだ。写真は過去しか投影できず、そこに見えるモノしか像として現れない、いわば現実の模倣品である。「この時にこの事象が起きていた時に、確かにここに自分は生きていた」という、自分自身の存在意義をレースの写真に求める。

写真は記録である。それは芸術であることをやめ、内なるものの表現(expression)であることをやめて、記録に徹する時、何ものかでありうる

中平卓馬『来たるべき言葉のために』

記録という言葉で考えるならば、自分の内側のイメージを写真に投影することは目の前の事象しか投影できない写真の本質と違っているのではないか、ということも意識する。自己の主張・思想、過去の想いなど、自分と写真が密接に引きついた状態だと写真作品になりづらくなる。そうならば、結局、その場の記録を収めるだけでいいのかもしれない。
これを突き詰めて写真を撮ると、縦構図の、カラーの、そんなような写真に行き着くのだろうか。悲しそうな顔をした猫の図鑑はない。
「写真は記録か芸術か」論は、アート写真も含めた大きな議論になるわけで、自分も勉強中であり、そこを長くここで語るほどの知識を持っていないので深くは書けない。

いずれにせよ、この問題の行き着く遥か先は、自動車レース写真に限らず、なぜ自分は写真を撮っているか、に続いていき、簡単に出るはずのない答えを探しに迷走しているところだ。それはつまるところ、大きい枠組みで言えば、クルマをカッコ良く撮りたい、そのスポーツの魅力を伝える、という事になるのだろうか(一言で表せないと言ったが)。まだ詰めきれていないのが現状で、それらに繋がっていくのかもしれないが、奥底は上記のようなものだろうか。

2018年Super Formula Rd.5 DOCOMO TEAM DANDELION 松下信治 選手

うまく言葉で言い表せないことだが、以下、あるブログの引用。

『私がカメラを向けるひとつのポイントは「覚えておきたい」と感じるもの。たとえ時間が流れ、記憶が曖昧になり、この日のことを忘れてしまったとしても、「いまこの瞬間、この風景を見たときの気持ちだけは覚えていよう」という強い想いが、私の「写真を撮る」という行為に繋がっています。そして、ファインダーを覗きながら被写体に近づいたり、逆に距離を置いてみたりする。そうすることで見えてくる、被写体と自分との間にあるストーリーを写すような感覚です。また、被写体を見たときの瞬間的な印象を大切にしているので、常に自分の目の高さで撮っています。そうすると、写した写真に自分の存在を感じる気がするんです。』

RECO

この文章はモータースポーツ写真に限らず、写真を撮ることに関する自分の存在意義を考えるうえで、非常にストンと落ちるものであった。
写真を撮ることに関して、水中の深い場所まで潜り込んで自分なりに意味付けして問いを立て、写真と対話するなら、漠然とこういうことなんだろうなという気がする。



自分自身の存在意義をレースの写真に求める、と前述したが、それは眼の前の競技者(車)にも当てはまる。

物事には光と陰が必ず存在するし、モータースポーツだってそう。
影の部分には「死」が見え隠れする。

下の写真は岩崎哲朗選手。
この写真を筑波で撮った翌年、彼はSUGOで事故死した。
岩崎選手の走りは、もう見られない。
写真の中と、それぞれの心の中でしか見ることは出来ない。

涙してもいい、思い出を酒を酌み交わしながら語ってもいい。
写真を見ることで、彼の勇姿を思い出すことができる。

そういった事実を踏まえたうえで、この写真から、何を考えることが出来るだろうか。

2019全日本ロードレース第4戦筑波 J-GP2 岩崎哲朗選手 

ただ、死を連想したり、直接的にそれと分かる写真を出すと、必ず炎上する。以前、オートスポーツがジュールビアンキの事故直後の写真を表紙にしたら猛烈な批判にさらされた。色々な見方があったが、個人的には、ありのままを見せ、事故やアクシデントについて改めて考える機会を与えてくれる意味では非常に良いと思ったのだ。普段、いかに光の部分、表面的でしか物事を見ず、こういう出来事から目を逸らし続けている事がよく分かる。日本人特有なのではないか?生と死は表裏一体であるにもかかわらず、普段それを無意識のうちに遠ざけている。「ありのままを見せ、問題定義をして、そこから噴出するあらゆる事象について議論をすることが重要だ」と簡単な言葉で書いても伝わらない事が多い。その点では写真というメディアは非常に有効だ。

影の部分にも光を当てたい。
それが、本質を捉える事にも繋がってくるからだ。

「それは確かにここにあったもの ここは確かに君と出逢った場所」

中島美嘉 Beyond

レーサーの存在意義を、レースの写真から読み取り求めることも出来る。ある意味、魅力を伝えるにはこうした陰の部分こそ重要だ。あえて見せるからこそ光が強調され、より魅力的に映る。眼前に現れる非現実で異質な空間の中で、生死の表裏一体の極限状態の中、ドライバーやライダーは何を考えているのだろう。その上で、自分と被写体間に存在する空間に現れた、ある種のメタファーのようなものを写真に落とし込むということをしているのだ。展開されるレースは異質な時間であり、サーキットはそれが滞留する空間である。それがヘテロトピアであり、ここでその空間から何かを問いかけられている。そして自分は ードライバー・ライダーはー 何者であるかを考えるきっかけを与えてくれるだろうという、一抹の期待を込めてシャッターを切る。ロラン・バルトが『明るい部屋』で述べた、<写真の本質は「それはかつてあった」を証明すること>に通じるものもあるのかと思う。たぶん。

それを写真から読み取ることが可能ならば、こんなに撮っていて魅力的な被写体は他にない。

2019年鈴鹿8耐

やはり長くなった。
vol.2に行こう。



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