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日日是課金

コインランドリーでシーツとベッドカバーを洗濯した。

コインランドリーに行くという生活の選択肢を最近覚えた。都会のコインランドリーはすごく進化しているというようなことを特集したTV番組で見てからやっと「コインランドリー!そういうのもあるのか」となったのだ。それから興味を持って近所の店に行ってみた。都会ではないので残念ながらさほど進化もしていないオーソドックスなものだったが、以来ときどき利用している。

本当はシーツだって家で洗って干せる。ただ、気候が悪くて微妙に乾かなかったりするとテンションが下がる。生来の無精のせいで、ベッドシーツなどの大物はそもそも洗濯するのにちょっと腰が重くなるのだ。乾き方微妙だな……みたいなテンションの下がりを見越してやる気はどんどんなくなる。金を払って乾燥機をかけて、ほかほかしてる!ひゃっほう!の気持ちのままベッドに設置するぐらいじゃないと、洗濯を先延ばしにしてしまうのだ。

最初はこういう「本当は家でやれるんだけど金を払って済ます」みたいなものに対してかなりの抵抗と罪悪感があった。コインランドリーとかインスタントとか、合わせ調味料とか。そういうものに頼るぐらいならやらん方がマシ!ぐらいに思っていた。若さ故の潔癖かもしれない。実際、大学生ぐらいのころはそれでもなんとか回っていた。社会人になって、アッこれこの調子でいると生活が終わるな?と気がついた。

本当は自分でもやれるんだけど金を払えば済ませられるもの、よく考えればかなりのものに当てはまる。要はそれをどのぐらいの人が、金を払うほどでもないことだと認識しているのかによって、贅沢かそうでないかが分かれているだけのことだ。ソーセージを買った人に、その気になれば家で豚は飼えるし腸詰だって自分でできるだろうと説教する人は少ないはずだ。実際はやろうと思えば不可能ではない。でもやらない。その基準を拡張していくと、コインランドリーを使う人と使わない人みたいな境目が現れる。

コインランドリーを使えるようになった私も、例えばまだ、ハウスキーパーさんを雇って部屋の掃除をしてもらうところまでは行っていない。そのへんはまだ「自分でできる」ゾーンなのだ。いや、本当は頼んだりしたら新たな発見もあるのだろうなと思う。今後使うときがあったら、きっとそれは好奇心に負けたときだ。自分自身への罪悪感への言い訳にすぎないのかもしれないけれど。


今日はここまで。ありがとうございました。


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