むき身日記【2024年8月】
8月最終週は、よく学び、よく働き、よく遊び、よく食べた!
ひょんなことから演劇に面白さに気づき、人生の師匠(と勝手に思っている)と皆川の三人で、【朝日のような夕日をつれて2024】(鴻上尚史)を観に行った。
言葉の大嵐の中、「待つ」時間を病むことや痛みで目一杯麻痺させていた自分を思い出した。
遊びと病みに優劣はつけられないけれど、私は遊びに罪悪感を感じる子どもで、意義や価値みたいなものに心底縋っていたんだなと思った。
何となく、病むことって「意義」がありそうだったのかも。
今は、無意味さや何も生み出さないこと、闇の中の光が素敵だと思う。
こんな自分は「本当の私」じゃない、と何かを待ち続けることは誰にだってあることで、だからこそ作品が長年上演され続けているのだろう。
そういえば、ベケットの【ゴドーを待ちながら】は、【ドライブ・マイ・カー】にも登場していた。
家福は、自分の人生を埋める方法が、感情を麻痺させること、(公私共に)演じることだったけれど、じゃあ新しい生き方を…となったときに、どんな姿が自分にとって「正しい」のかは誰にも分からない。
家福のしんどさは、最後の最後に「正しく」という言葉が出るところ…なのかもしれない。
(私が師匠の名言として手帳にメモしている)「やぶれかぶれ」には、加福は生きられない人なんだな…と切なくなった。
…という色々な余韻を引きずったままモリモリ鰻を食べ、喋り過ぎて喉を枯らし、宇多田ヒカルの25周年ライブに行って来た。
楽曲解説という名の自分語りをしたくなるほど演奏が素晴らしく、MCで滝のような涙が流れた。
宇多田ヒカルは「何かを”失った”ってことは、与えられてたんだなって気づかされたり、失ったものはずっと心の一部になるって知ったりする」と言っていた。
失ったことや、得られなかったことが今の私をつくっている。
戻ってこないそれらに悲しくなることもあるけれど、今の私は「それが私」という感じになれた。
痛みや挫折で「成長する」、失ったことからこそ得られることもある…という言説は私を痛めつけるだけだったけれど(だって、別に何かを得たって嬉しくない)、宇多田ヒカルの言葉は、私の傷をシュワシュワと癒していった。
失ったことを得ることでカバーするよりも、「失ったんだな」と静かに悲しみ、その痛みを感じられるようでありたい。
たくさんの言葉に癒され励まされた8月。
大忙しだけど、頭も心も身体もよく動いた一カ月だった。
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