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彼女は、秋に生まれた

 まだ物心もつかない幼少期の頃、岡山の東端にある祖父の家にて、静かなる秋を過ごしたのだった。地元の港町より冷え込む朝方、裏庭は小さな池があったが、私が生まれるずっと以前から水は枯れてしまい、池を枠取った岩や木々が虚しくも佇む表情というものを、僅か五歳の少年が縁側から飽きもせずにただ眺めていた。

 私がかねてより望んでいた妹の誕生、そんな生のなんたるかを理解出来もしない子供においても、新たな家族の生には敏感だったようで、毎日のように父に電話を入れては、
「もう産まれた?」
と、喉を震わせながら尋ねる自らの声を思い出すことができる。祖父が言うには、初めて親の元を離れた私の寂しさより放たれる涙混じりの声との事だが......さぁ、そんな記憶は既に頭の中から消失してしまっているのだから、分かるはずもない。

 県庁の職員だった祖父は、自宅に客を招くのを趣味の一つとしていた。仕事で世話をした、された人々がいれば、旧友、知人が毎日のように彼を訪ねてきた。私と従兄弟は、廊下の隅で応接間から聴こえてくる有線のラジオに耳を傾け、扉の向こうで飛び交っているだろう「大人の会話」を想像し、その秋、また一段と背伸びした姿を周囲に見せようとする幼心が、皮肉にも祖母や叔母の微笑ましい表情を誘っていた。
 昼が近づくと、客に出す分と合わせて大量の出前を取るのが常だった。あるときは、寿司。またあるときは、中華料理。稀に鰻重がテーブルに並ぶ日があった。祖母、叔母、そして私と従兄弟で賑やかな昼食を取ったあと、大人たちが掃除や洗い物で忙しなく動く隙を見つけては家の裏にある広大な畑より、名前も分からない山の稜線を子供の視線だけでなぞっていた。

「なぁ、こんなに近くにある山の名前も、俺らは知らんのや」
 もう少し干渉に浸る余裕があるとすれば、私にもこのような言葉が、口を突いて出るはずだった。しかし、もうじき産まれる妹の名前すらも知らない私には、そんな木々の塊に付けられた名など──それも、自宅から離れた土地にそびえる山の名なんて──興味すらもてなかったのは当然である。

 やがて陽が落ちて、従兄弟は叔母と共に自らの家に帰って行った。子供部屋で本を読んでいる私に、台所から聴こえる祖母の鼻歌、寝室にて点いたままの野球中継、縁側で寝転がる祖父のあくび、そんな一日の終わりを予感させる様々な要素が音を立てて届いてくる。夕陽の中を飛ぶカラスが皆去ってしまえば、今日も布団に包まり、あとは目を閉じるだけ。
......寂しかった。会いたかった。母に、父に、名も知らない妹に、ただただ会いたかった。

 五歳離れた妹の名前は、彼女が産まれた秋とはかけ離れたものとなった。私は母に感謝の手紙を書いたが、その数年後、反抗期の私が他の贈り物と一緒にすべてを処分してしまった。恐らく、なにか気に食わないことがあったのだ。両親は、妹に嫌味の一つも言わず、まるで箱入り娘のように育てていたが、それでも彼女の反抗期というのは兄の比にならないものだった。不思議なもので、それほどまでに激しい反抗期を経た彼女は、二十歳を過ぎた頃から顔付きも変化し、国内でも数本の指に入る企業に就職をした......。繰り返すが、不思議なものだ。
 先日、妹が彼氏を連れて自宅を訪れたと、母から連絡があった。肩書き、収入、性格のどれを取っても申し分のない男だったと、母は嬉しそうに語っていた。

 妹は秋に生まれた。厳格な両親と、優しく、人格者で、たまに小遣いを渡してくれて、優しさに満ち溢れ、誰が見ても常時人格者で、更に小遣いをくれる男......。彼はいつも優しく、言うまでもなく人格者で、なんと小遣いを差し出すほど、ゆとりあるハイセンスな兄だった。

家族孝行は、早くした方が良い。
何度でも言う。
家族孝行は、早くしなさい。
特に人格者の兄には、早く孝行した方が良い。

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