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映画研究会について

「豊饒すぎる夢を抱えきれる人間はそう多くない。それが悪夢に近いものならなおさらだ」

伊藤計劃〈cinematorix〉

 映画。この二文字に括弧を付けずにはいられないひとびとが、世界には存在する。

 「  」は世界を分節する。やや露悪的に言うならば分断する。あちらとこちら、あなたとわたし、あるいは、あるいは。差異を差異として指し示すこと。その強迫観念オブセッション。かくあらねばらない、という言葉が規定するフレーム。それらの形成する力場は境界をかたちづくる。換言すれば、その「場」とは「円環サークル」だ。

 そのような円環の内側に生きるひとびと──時にそれはシネフィルと呼ばれる──にとって、今日の「映画」はひどく奇妙なものに写るはずだ。「映画離れ」が叫ばれて久しい。鑑賞マナーの劣悪さ(=集中力の低下)が指摘されて久しい。サブスク世代、という言葉が盛んに議論の俎上に掲げられるようになってから随分経つような気がする。けれどそうした言葉たちを横目に、あるいは嘲笑うように、映画の興行収入は上がり続け、鑑賞文化は定着しているように見える。『スラムダンク』が、『マリオ・ブラザース』が、そして『ゴジラ-1.0』が、絶えず銀幕に躍り、その統御された時間の内側にひとびとを包摂した一年。それこそが2023年であった。それは『君の名は。』をはじめとする数々の名作が上映され広く受容された2016年や、その後の──令和、と呼ばれるガラパゴスな精神圏における時間の──文化を決定づけた2019年に匹敵する重要さをもって、われわれの横を通り過ぎていった感がある。そしてそうであるがゆえに、シネフィルにとっての2023年は一種の「悪夢」だった。離島に転がる生首の見た夢のごとき一年に、立ち尽くさざるをえなかったひとびと(*1)。その嘆きもまた、華々しい映画の華々しい記憶がそうであるように、いま・ここに木霊している。

*1:言い添えておけば、昨年は伝統的で巨大なIPの映画が興行不審に悩まされた年でもあった。言わずと知れた『インディー・ジョーンズ』や『ミッション・インポッシブル』の新作が。マーティン・スコセッシやリドリー・スコット、国内であれば北野武や岩井俊二といった名作家たちの新作が。2010年代を代表する脚本家の一人である岡田麿里の『アリスとテレスのまぼろし工場』が。同じ10年期を象徴するアニメ会社P.A.WORKSの謹製『駒田蒸留所へようこそ』が。あらゆる「名作」たちが、汚泥に塗れた生首のように流されていった

 KGU映画研究会は、ここまでに述べてきた「2023年」の二面性の、境界に立つ。シネフィルとパンピーのサラダボウル。あるいは、Z級とサブカルのあわい。あるいは、言論そのものを無化する反知性主義の根城。あるいは、古さびた言論の記号を、慰撫めいた仕草で交換する象牙の塔。そのような境域として、円環サークルとしてそれはあり、そしてあり続けることを志向する。シネフィルがあの2023年に対して沈黙しなかったように。

 長く、KGU映画研究会は制作集団として、ワナビと同好会のあわいのような、ある種のゲゼルシャフトとして存続してきた。しかしそれはあくまで一面にすぎないはずだ。本質──仮にそのようなものがあるとすれば──は「場」そのもの、ここまでに述べてきたような「円環」そのものにある。

 映画好き(マニア)にも、シネフィルにも、フリークにも、オタクにも、ワナビーにも、そうでないすべてのひとびとにも、そして何よりも、この文章を読んでいるあなた・・・にも、KGU映画研究会は入口を開いている。

 われわれは、あなたの入部を期待している。

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