見出し画像

俺の・私の野球史-藤井祐作

私は兄の影響で野球を始めました。物心ついた時にはボールとグローブを持って兄の練習場まで母親と一緒に行き、練習場にいかない日でも幼稚園から帰るといつも家の和室で壁当てや子供用木製バットを振っていました。そのため和室の壁を壊してしまったという思い出があります。
小学校1年生の10月になると少年野球チームに入り、私の野球人生が始まりました。



中学校に入ると学校の軟式野球部に入部するのではなく硬式野球クラブに入りました。投手をしていて手術が必要なほどの骨折してしまいました。そのあとは手術をして十分なリハビリと体を鍛え治しましたが投手としての復帰は厳しくなりました。これまで投手としての活動が主であったためかなり苦しい判断で野手専門に転向しました。

高校では硬式野球部に入部しました。中学までの練習とは比べ物にならないぐらいきつい練習でした。入部後間もなく肉離れで離脱し、焦って復帰したためすぐに再度肉離れを起こしました。こうして高校野球はスタートから出遅れてしまいその遅れを取り返そうとしたが左膝を脱臼してしまいました。
ここから先は怪我と付き合う日々となりました。苦しいリハビリを乗り越えては復帰し、数日練習すれば再度脱臼し、またリハビリの繰り返しで心が折れそうになりました。走攻守、野球のすべての動作で脱臼した私は野球をするのが怖くなりました。

そして高校野球が終わりこの関西学院大学入学が決まりました。部活に入部するかサークルに入るか、また野球を続けていくのか迷いました。しっかりと高校野球を経験した友人たちの多くがサークルに入り、自分のような十分な高校野球を経験してこなかった者が部活に入ってやっていけるのだろうかと不安がありました。しかしやっぱり野球をしたいという感情が生まれ、この準硬式野球部に入部しました。
大学に入っても打席に立てば膝のことばかり考えてしまい集中できませんでした。しかし同期に言われた「めっちゃ楽しそうやね」という言葉を聞いて怖さがありながらもやはり私は野球が好きなんだと確信することができました。それからは心の思うまま楽しみながら野球をすることができるようになりました。



大学野球は選手としてやりきると決めていました。みんなからしてみると当たり前に成し遂げることができることだと思いますが、私は高校時代に成し遂げることができず、不完全燃焼で終わってしまったからです。
そして私はこの先こんなに野球に打ち込むことはなくなります。だからこの15年と長く続けてきた野球に区切りをつけるために、そしてここまで大学野球の苦楽をともにしてきた仲間とともに最後のリーグ戦優勝、全日出場というチーム目標を達成し、少しでも長く野球ができるようにやり切りたいと思います。

最後に今まで私に関わってくれた皆さんには心から感謝しています。本当にありがとうございました。

藤井 祐作(ふじい ゆうさく)/ 経済学部・東明館

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?