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リフティング至上主義

子供達に「サッカーしよう」というと「リフティング」をはじめたりする。広いグラウンドなのに。もったいない。

リフティングそのものをサッカーの試合中にすることはほとんどない。皆無といっていい。Jリーグ創世記にレオナルドやピクシーやエムボマがリフティングからのゴールとかいうハチャメチャプレイを決めたことはあるけど、特にスピードアップが著しい昨今のサッカーでは、そんなことは滅多に起こらない。

リフティングに必要な様々な要素は、サッカーを上手にこなす上で必要なものである。浮いたボールへのタッチ・ボールが落ちてくるまでの限られた時間の中での判断・適切な身体操作・集中力。回数を数えられるというのも、自身の成長が数値化されるという意味で重要な要素かもしれない。

とはいえ、サッカーというのはボールをゴールに運ぶ、あるいは運ばせないことを目的とするゲームであって、その場に留まることは目的ではない。またサッカーは11vs11(あるいは8vs8)でプレイする多人数ゲームであり、1人でボールをつつき続けることはない。

「リフティングが上手い=サッカーが上手い」というのは、巷で信じられている”誤解”である。もちろんボール扱いの巧拙に関わることなので、ある程度には相関があるけども、決定的に重要な要素とはいえない。なぜならプレイの半分は守備で、攻撃時でも1人がボールを持っている時間は2分、その中でボールタッチをする回数は通常100回にも満たないからだ。

日本では、サッカーの1要素にすぎないリフティングが、あまりにも重視されすぎだと感じる。それはたぶん、代表レベルの選手であっても個人戦術が拙いことと地続きなのだ(かなり無理矢理な外挿だけれども)。あえて名前をあげれば宇佐美であり香川であり柿谷であり・・・・。

キッズサッカーを眺める立場になって(コーチではないけどコーチの補助をしている)、グラウンドの練習にもかかわらず、リフティング的に自分とボールとの関係だけになってしまうメニューが多いことが気になっている。それはスペースの広さという意味ではなく、心身行動という意味で、だ。コーンを立ててのスラロームドリブルも、身体操作とボール扱いという意味では、リフティング的な。そこに認知・判断がない。

サッカーがボールをゴールに運ぶゲームである以上、認知・判断の対象として常に最上位の優先事項であり続けるのは、ゴールの位置である。ゴールの位置が認知できることで、はじめてボールをどの方向に運ぶかを判断できるし、そのためにどのようにボールを触るかが決まる。

だからグラウンドでの練習では、どんな練習であっても、ゴールの位置を設定して、その向きを常に意識するようにすべきだと思う(思いながら見ているだけだけども)。たとえばスラロームドリブル練習でも、最後の1個を超えた先にゴールを設定する。抜ききった後で、どこにゴールがあるのかを意識するからこそ、顔をあげるし、最後まで抜ききる意識を保てる。

リフティングは自宅の周辺、つまり狭い場所で練習をする場合のメニューとして、ほぼ唯一の選択肢だ(だから土地の狭い日本でリフティングが持ち上げられているのだろう)。だからといってリフティングの「ルール」を「ノーバウンドで何回できるか」だけに限定する必要はどこにもない。

たとえば「ワンバウンドでもかまわない」と制約を緩くする代わりに「前後左右に進む」や「同じタッチを続けない」など、他のルールを導入しても良い。あるいは「ゴールの位置を(脳内で)設定して常にシュートを打てるようにする」とか「仮想敵を(脳内で)用意して相手を外す動作を組み込む」とか。

じかんぎれー

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