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「それもまたよしや」と言える強さ

 8年ぐらい前に大好きになった映画の話をします。『ジョゼと虎と魚たち』という映画です。劇場公開は2003年。いまをときめく著名俳優さんたちが、めっっっちゃお若い姿でぞくぞく登場します。原作は、今年6月に亡くなった田辺聖子さんの小説。もちろん、原作も読みました。

 今から8年前。当時私は、シナリオ作家養成講座を修了したばかりで、よっしゃとりあえずなんかいっちょ習作を書き上げてやるぜ、と情熱に燃えていました。その情熱のままにいろんな映画を見まくって、そんなときに『ジョゼ(以下略)』に出会ったわけです。大好きになった理由は、主人公のジョゼが、そのとき書こうとしていた習作の主人公のイメージにぴったりだったから。その後せっせと書いた習作がどうなったのかについては……あー、まー、今回の話にはあんま関係ないので割愛します……

 でですね、ここ最近私、「昔ハマッた映画だのドラマだのを再視聴しようキャンペーン」を展開中でして、久々に観てみました、『ジョゼと虎と魚たち』。8年たって、何か感じることがあるのかなーと。
 そしたら、いろいろ思い出しましたよ。初めて観たときに、自分が何をどう感じたかとか。
 いちばんびっくりしたのが、当時の私、たしか結末に納得がいかなかったんですよね。
 じょうだんみたいなラブホテルの、じょうだんみたいなベッドの上で、「この世の中でいちばんエッチなこと」をさせてもらった恒夫くんが、寝てんだか起きてんだかよくわかんないかんじでだら~~~~っと寝そべってる。その横で、ジョゼは淡々と言うんです。

「いつかあんたがおらんようんなったら、(自分は)迷子の貝殻みたいに、ひとりぼっちで海の底を、コロコロコロコロ転がり続けることになるんやろ? でもまあ、それもまたよしや」って。

 それを聞いて、当時の私は思った。
「はッ!? なんでッ!? なんでそんなこと言うんだよ!」
 まー、なんとおめでたい頭だったことでしょう。
 だってこれはどう考えても、この結末にしかなりえんだろ。こうじゃない終わり方があると思っていた当時の自分は、どんだけ脳内お花畑だったのか。ああ恥ずかしい。

 でもなー。あの頃の自分のこととか、この映画に出会った数年後に起きたことへの対処のしかたとか、いろいろ考えると、そんな幼稚な考え方をしていてもおかしくないんですよね。数年後、(少なくとも自分では)理不尽極まりない(と思った)出来事が発生したとき私は、「なんで自分がこんな目に遭わなきゃいけないんだ! こんなの納得いかない! イヤだ!」ってさんざんわめいて暴れて……いや、さすがに私アクセル・ローズじゃないんで、ホントに部屋でひとりでわめいたり暴れたりはしないですけども、それぐらいの勢いで、突然降ってわいた「理不尽な事実」の受け入れを拒否したわけです。
 あのとき、「それもまたよし」と受け入れる強さが自分にあったら、いま、違った未来があったのかもしれない。まあでも、当時の自分があそこで何かを間違えていたとしても、間違えた先にグルッと回り道をしたことは、自分に絶対必要な過程だった。その点については、確信しています。

 いま、この映画を改めて観て心に突き刺さるのは、「壊れ物」と言われようと、物理的にも精神的にも誰にも何にも依存せず、しっかりと自分の力で生きていく覚悟を固めた「ジョゼの強さ」。

 暗い暗い海の底を、ひとりで永遠に転がり続けることになったとしても、たぶん、きっと、「それもまたよし」。ときどき頭の上を、子どもの頃からの憧れの深海魚、リュウグウノツカイがとおりすぎたりして、それを見上げて、ああきれいだなあ、と思ったりして。

 そんな未来なら、むしろステキなのかもしれません。

 8年前と比べて、どうなんでしょう、こんなふうに思えるようになったってことは、成長したと言っていいのでしょうか。

 5年後ぐらいの自分に、聞いてみたいです。

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