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AIと脳とプロセスと

今回はちょっと音楽の話から離れる。

私自身の背景情報

AIについては、賛成派も反対派もたくさんいて、いろんな議論がある。なので、これに近い話をするときには立ち位置や背景情報があったほうがフェアな態度だと思う。

私自身は趣味としてコンピューターで作曲をする。作曲をするときには、音符を並べる部分はあんまりAIを使うことは無い。しかし、出来合いの音素材である「サンプル音源」は使う。サンプル音源をAIで作ることもある。(たいていうまくは行かない) 音のバランスや音量を調整するためのプラグインには間違いなくAIが入っている。

作曲をした後のMVに使う画像はほぼ全てAIで合成している。(具体的にはStable Diffusionを利用している。) AIで合成していることは公表しているし、それで作った概要欄にも記載している。

イラストはちょっとやってみようと思って、練習して、全然上手く行かなかった。グラフィックデザインについては知識がある。よって、イラストレーターがいかにすごい特殊技能をもっているかは知っているし、リスペクトもある。

偏って無いとは言い難いことをお断りしておきたい。

AIに対する嫌悪感

AIがこれほど一般化する前から、AIに対するちょっとした嫌悪感を人間は感じてきたんじゃないかと思う。思えば、計算機が単に数値の計算をしているだけの時代は、まだ牧歌的であった。

一般の人にとって、この嫌悪感が大きくなってきたのは囲碁の世界チャンピオンをAIが倒してしまったあたりではないかと思っている。多くの人は囲碁のルールすら知らないのに、このニュースについて無関心ではいられなかったようだ。当時、連日放送されたニュースを覚えている。

他方で、GPT-2がへんてこりんな文章を生成することができるようになり、GPT-3が人間と大差ない文章を生成することができるようになった。そして、これを使ったChatGPTが生成AIの代表格となり、GPT-4までいくと、もはや知能があるようにさえ思える。

そして、画像や音楽や映像の世界にAIは進出してきた。最初に出たときにはどれも馬鹿馬鹿しい程度のおもちゃだったが、たったの数ヶ月で、脅威を感じるほどになった。

「計算機」が行っていることはだんだん計算には見えなくなっていった。

機械によって異なる?

ところで、よく考えてみてほしい。多くの機械は人間よりも特定のタスクに優れている。これは当たり前の事実だが、AIの話をするときには忘れている。例えば、自動車は人間よりも何倍も速く、遠くへ走るし、ピッチングマシーンはとても速い球を投げられる。

しかし、「自動車がウサイン・ボルトを抜いた」とか「ピッチングマシーンが大谷翔平より速い球を投げる」という事実は、囲碁の一件ほどには人間にとって大した衝撃を与えていない。ましてや、これらの単純な機械に嫌悪感がある人も少ないだろう。

特別扱いの脳

「遺伝的に肝臓が弱い」「遺伝的に筋肉が弱い」と言われても受け入れられる。しかし「遺伝的に脳が弱い」は受け入れがたいものを感じる。「肝臓が弱い」は事実の列挙であるが、「脳が弱い」は侮辱である。脳は特別と思っている一方で、他はそうでもないのかもしれない。

こう考えると、どうやら脳が深く関係する領域に機械が侵入してきたときに、人間は嫌悪感を感じるらしい。囲碁やイラストは脳の中のイマジネーションが大きく関与すると考えられる行為であり、それは「特別扱いされるべき脳」を「単なる機械で代替可能なもの」へ貶めてしまう。

「AI絵師」というイラストレーターに忌み嫌われる言葉も、「脳の中から絞り出した創作活動」の領域に「AIのパラメータを調整する作業」が侵入してしまっていることによって違和感を発しているのかもしれない。(私もAIで画像を生成する側の人間ではあるが「AI絵師」は、自動車運転手を「スプリンター」と呼ぶような違和感を感じる。)

慣れるのだろうか?

この嫌悪感は薄れたり克服したりできる性質のものだろうか。(克服しなければならないのかという問題は一旦は脇においておく。) 個人的には、その解答は肯定的なものじゃないかなと考えている。

X (Twitter) の観測範囲内を見ている限り、イラストレーターはAIに対するアレルギー反応がとても強いのに対して、音楽家は大したことが無いように見える。この差異は、イラストレーターはもっぱら「手」で行う作業が多いのに対して、音楽家はすでにその作業に「録音」「合成」「サンプリング」が当たり前に入ってしまっているせいではないかという気がしている。

こと、DTMに限って言えば、サンプリングも合成音も使わずに構成される楽曲のほうが少ない。伝統的な音楽ジャンルでも無い限りは、自分自身で100%頑張ることのほうが少ないくらいだろう。機械の洗礼はもう何年も前に受けてしまっているし、受け続けている。

一方で、イラストレーションや絵画では、写真という大津波がかつて現れたが、それは取り込まれる方向ではなく、印象派以降のような「表現の方向性を変える」ことで立ち位置を保ったと言える。写真をイラストレーションに取り込むような方向性は、マン・レイなど少数を除けば、さほどは生まれなかったように思う。結果的に現在でも写真利用やコラージュがイラストレーションの主たる方法にはなっていない。つまり、これまで機械の侵入が大きくなかった分野なのではないだろうか。

この対比を考えると、いつかはイラストレーション界隈でもAIによる画像生成の事例がよくも悪くも増えていって、結果的に徐々に慣れて、DTM音楽業界程度の反応になるのかもしれない。

プロセスの価値は消えない 

私自身は、AIでかなりいい音楽が作れるにも関わらず、なんならAIなど使わなくても、サンプリング素材を適当に組み合わせるだけでも良いものができるのにも関わらず、そうしない形で音楽を作り続けている。(そしてアップロードしても特に人気になることも少ない。) それは、作るプロセスが趣味だからだ。

写実絵画は写真ができた後も、消えなかった。「写真みたい」という称賛はプロセスに向けられたものだと思う。人間が作っている過程自体に価値が見出される。(「AIみたい」は今のところなんとも言えない表情になってしまうが。)

100メートル走のタイムだけが価値だとするなら、野球の結果だけが価値だとするならば、どうして人間が競技場に集まる必要があるだろうか。ロケットエンジンの風洞実験やピッチングマシーンの強度試験で十分ということになりはしないか。手に汗握る興奮も、こぼれ落ちる涙が示す感動も、全てはプロセスの価値といえよう。

だから、プロセスを楽しもう。AIには到底奪えない人生の価値がそこにはあるから。

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