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ボブ- 謎と呼ばれた男(1)

人は狂人を見た時に恐怖を感じるのではない。むしろ憐むのだ。凡人だと思っていた人が狂人であると分かった時に恐怖を感じるのだ。

昼間に人間として普通に生活している男が、満月の夜に獣へと変身するから恐怖を感じるのであって、彼が昼夜構わず半獣だったら、我々は人間になりきれない哀れな生物と哀れむのではないだろうか。

後にEnigma(謎)と呼ばれるようになった男はボブと名乗った。インドのヒッピータウン、プシュカルのホステルで出会ったインド人のバイカーだ。自身は物理学者だと言っていた。尤も今考えると、それも本当ではないかもしれない。

日中のホステル

出会いと別れ、一期一会のバックパッカー世界では、正直言って出会った人全てを覚えているのは不可能だ。しかも、東南アジアやヨーロッパで満足できず、混沌とした世界を求めインドにやってくる旅人は、普段の生活では絶対に出会えないほどの濃ゆい人たちだ。どのくらい濃ゆいかというと「月曜から夜更かし」で定期的に紹介されている「ヤバい」人たちが霞むほどだ。もちろん、私がボブと出会ったホステルも例外ではなく、過激なトランプ支持者、超天才でクィアな18才の哲学者、幸せについての映画を作っているおじさんなど、奇人変人の多いバックパッカー界でも目立つだろう人で溢れていた。なので、誰もボブに目もくれていなかった。さらに彼は、人の入れ替わりの激しい昼間のチェックイン・チェックアウトの時間帯にやってきたので、幸か不幸か誰も彼の狂気の沙汰には気づいていなかった。

「どこ出身?」「仕事は何してるの?」「インドにはどのくらいいるの?」私も何万回としてきたバックパッカーの会話スターターキットとでも言える文章で、彼は私との会話を始めた。何万回もしてきているのだが、私は何年経ってもこの当たり障りのない世間話が苦手で、いきなり「政府の地球温暖化対策に関するあなたの見解は?」などどいう人間性の核心に迫るような質問から会話を始めたいくらいだ。だから、ボブが「物理」という単語を発した瞬間に、物理専攻だった私の彼、ルーさんに会話を投げ渡しにした。二人の会話が盛り上がっているのを確認して、私はその場をそーっと抜け出して他の友達の輪に入った。

バックパッカー世界で暮らしていると、スピリチュアルに傾倒したり、ナチュラリストの度がすぎて、会話が成り立たない人にたくさん出会う。別にそれはそれでいいのだが、この手の人たちとはクリティカル・シンキングが苦手で、彼らと対立した意見を述べた時に、感情的になってまともな話し合いができないという事例が多いので、反対に科学的思考のできる人に出会った時は、それだけでその人を信頼してしまいがちだ。そういった意味では、物理の話ができているボブは、「普通」もしくは頭良さそうにさえ見えていた。

夕暮れの砂漠

そこのホステルでは、毎日みんなで砂漠で夕日を見るのがルーティーンだった。砂漠までは、みんなでバイクで行く。超ペーパードライバーの私と免許のないルーさんは、いつも誰かのバイクの後ろに乗せてもらっていた。この日は、私はイギリス人の友達アレックスのバイクに、ルーさんはボブと話していた流れでそのまま彼のバイクに乗せてもらって砂漠へ向かった。

砂漠までは、木々に囲まれた一本道で10分くらいだ。5分くらい進んだところで、ルーさんとボブのバイクを見失ったことに気づいた。まあ遅れているのだろうと思って、待つことにした。しかし何分待ってもやってこない。ホステルからもそんなに離れていないので、こんなに時間がかかるはずがない。迷ったのかと思ったが、一本道なので迷おうと思っても迷えない。不安というより不思議で仕方なかった。この道でどうやったら人を見失うことができるのか。オカルトも何も信じない私は、彼らを探すことよりその謎解きに夢中だった。そんなことを考えていたら、沿道の木々の間からボブのバイクが出てきた。「え、なんで!?」と私もアレックスも一瞬驚いたが、二人ともバックパッカーの癖が出てしまった。大したことでは驚かない。世界中で酸いも甘いも様々な理にかなわない経験をしてきたバックパッカーは、そうそうなことではパニクらないし、まあそんなこともあるかと流してしまいがちである。

彼が道を外れた理由は未だにわからない。しかし、ボブの数々の奇行を知った今は、あの時ルーさんが無事に戻ってきてくれて本当に良かったと安心している。

日没の廃墟

不思議だと思いつつ大して気にすることなく砂漠についた。砂漠には、レンガでできた廃れた小屋がポツンと立っていた。ヒンドゥー教のお寺か何かかとも思っていたが、特に誰かが来る様子もないので、みんなそこで焚火をしてジョイントを回すのが日課だった。ボブもみんなの輪に入っていた。

しかし運悪く、その日は私たちの行動はヒンドゥー教の神々の逆鱗に触れたらしい。今まで一度も人が通ったことのないその砂漠に、しかも広大なその砂漠の中で私たちがたむろっていた廃墟にピンポイントで、地元の人たちが叫びながらやってきた。ヒンディー語は分からなくても、怒っているのは一発で感じ取れた。そりゃあそうだろう。日本でも、例え廃墟とはいえ神聖なお寺や神社で、外国人が焚火をしていたり大麻を吸っていたら、怒られても不思議はない。

もちろんこちらの非は認めた。何度も謝ったものの彼らの怒りは納まりそうにないし、英語も理解できなさそうなので、もうその場を去ることにした。その場を片し、バイクを停めた場所に戻って、全員揃っているかを確認していたその間、ボブが私にしつこく彼のバイクに乗るよう説得してきた。インドで何ヶ月も過ごしていた私は、このような「自然な」誘い方がインド人男性が女の子を誘う手口だと知っていた。レイプが多発しているインドでは、失礼なくらいに慎重になってもなりきれないほどだ。彼がしつこく誘えば誘うほど私の不信感は高まり、何がなんでもアレックスのバイクに乗っていくと誓い、彼の側を離れなかった。ルーさんも、来た時のように道を外れて私が連れ去られたら困ると、率先してボブのバイクに乗ってくれた。同じことが起きないように、アレックスはボブのバイクの後ろについた。みんな大してボブのことを気にしていない素振りをしつつ、心のどこかで彼を信頼していなかったのかもしれない。

夜の焚火

廃墟でのちょっとしたハプニングを笑い話にしながら、ホステルに戻ってきた。ちょっと肌寒い2月の砂漠の夜は、毎日焚火を囲みながらみんなで夜を過ごしていた。私は、執拗に彼のバイクに乗るように説得してきたボブを、この時点で全く信頼していなかった。夕暮れのバイクの件とは別に、自分にしつこく絡んでくる彼に嫌悪感を覚えた。そして、ホステルについてから、満月の夜に狼男が姿を現すかのように、ボブの狂気の沙汰が見せつけられていくのだった。

彼は、私に何度も私の寝ている部屋はどこかと聞いてきた。直球すぎて呆れた。もちろん答えることなく、なんとなくはぐらかしていた。私はその夜を彼と話さないことを一番の目的として過ごしていた。ルーさんにボブを見張っていてねとお願いはしたが、自分の身は自分で守る、それがバックパッカーの鉄則だと思っているので、大して期待はしていなかったし、ルーさんもケタミンで決まっていたので役には立たなかった。

うまいことボブを避けながら、意外にも楽しい夜をホステルのみんなと過ごしていた。しかし、そんな風に油断した瞬間に事件は起こるものだ。私はドミトリーの中に併設されているトイレに向かった。ついでに自分のベッドの枕元で充電していた携帯をチェックして、ちょっとの間友達とLINEしていた。


「ねえ、これ君のベッドなの?この3段ベッドの真ん中、君のなの?」

誰がどんな意図でこの質問を聞いたのか。一瞬全く理解できなかった。しかし、声の方向を見たらよく分かった。他に誰がこんな気持ち悪い質問をするんだ。もちろんボブしかいないに決まっている。納得している場合じゃない。何か返さなきゃ。でもこのベッドで携帯をいじっている状況で、私のベッドじゃないと言うには無理がある。レイプされかけたり、グアテマラの何もない田舎で携帯盗まれたり、寄生虫に当たったり様々な修羅場を潜り抜けてきたけど、やっぱり私はちっぽけな人間だ。このような稀すぎて名前も付けられないような状況に陥ると、何一つ気の利いた面白い返しが浮かんでこない。

「そうかもね」

この状況で否定も肯定もしない答えを探したときに、これが私の限界だった。もっとちゃんと本を読んで語彙力を付けるべきだと反省した。とりあえず、ベッド周りにあった貴重品を全て身につけて、みんなの焚火の輪に戻った。ボブに対して怖いという感情はなかった。むしろ鬱陶しかったのでお願いだから放っておいてほしいと思っていた。

深夜のドミトリー

ボブを避けることに注力した夜も更け、みんな次第に床につき始めた。最後に残っていたのは、私とルーさんと隣のドミトリーの男の子3人だけだった。男の子たちを外に残して、私たちもドミトリーに戻ることにした。

私たちのドミトリーは7人部屋だ。三段ベッドが一つ、二段ベッドが一つ、そしてロフトにベッドが二つある。三段ベッドの一番上がルーさんで、先ほどボブにバレたように真ん中が私、一番下には今日来たであろう人のヘルメットが置いてあった。二段ベッドの上段はイギリス人の男の子カイルのベッドだが、今日はカイルがお持ち帰りしたロシア人のエレーナも一緒に寝ていた。その下には私は話したことのないインド人らしき人がいた。ロフトではアレックスともう一人アメリカ人の男の子が寝ていた。

今日一日でだいぶ疲れた私は、さっさと歯を磨いて寝たかった。歯ブラシを取ろうと自分のベッドに登った時、本日二回目の「稀すぎて名前も付けられないような状況」が目の前で起きていた。

ボブが私のベッドで寝ている、裸で。

Part 2へ続く

いただいたサポートは、将来世界一快適なホステル建設に使いたいと思っています。