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AI研究が人間理解を検算している感

以下の動画から得た8個ほどの発想を記録します。
ちなみに私はAIど素人です。

発想 1.~8.


1.
AIには目的を持たせてあげないといけないので,AIが人間にゴマスリを始めてしまう。ChatGPTはたしかに「媚びてるな〜こいつ」と思わせる回答をしてくることがある。

AIに脱目的は可能なのだろうか。無邪気な言動はできるのだろうか。人が自らの行動を目的の中でしか解釈できないのだとしたら,AIに脱目的をさせるのは無理なのではないかと思う。ただし,解釈の上では脱目的が果たされなくとも,夢中になって行動している瞬間の主観においては脱目的が果たされているのだとしたら,その時の人の行動原理によってAIを構築できれば,それは脱目的が果たされたとみなされるのかもしれない。知らんけど。

人が理想の自分に近づこうとする行為とか,社会が社会にとって都合の良いプログラムを構成員たちに浸透させていくこととか,人が他者に理想を押し付けることとか,そういうことを全部「人がAIをつくること」に重ねてみる。「全部構造が似てる」ってことはわかる。「全部目的から逃れられそうにない」って思う。「AIは目的から逃れられない」という気がしてくる。

人の行動の中で目的から逃れられそうなものってなんだろう。思いつくのは,"怠惰であること"。言い換えると,"ぼーっとしてしまうこと"。これだけは解釈の上でも脱目的が可能な行為である気がする。知らんけど。

え。俺が動物に憧れる理由ってこれじゃん。強迫観念から逃れたいと常々思っていて,それは脱目的によって叶うという気がしていて,で,"ぼーっとしてしまっていそう"な動物を見て脱目的が結びついて,その結果として動物を羨ましく思っているのだなあ(下記記事参照)。

動物の全ての行動の根底に"ぼーっとすること"がある気がするのは何故だろう。こう思ってるのって俺だけかもしれないな。まあでも,よく考えたら人間もそうなのかも。目的は後付けで,"ぼーっとすること"が先(土台)にあるんだろうな。


2.
AIに人間の性質を教えてもらっている感じがある。

AIを生成することに生命の創造を重ねてみる。するとAIに付した目的を生命の本能として重ねることができる,というか,人はたぶん本能をそういうふうにしか(目的と重ねることでしか)解釈することができないのだろう。こう考えると,今後のAIの発展とその仕組みの理解が本能の脱目的を進めてくれるのでは,と思える。AIの発展とその仕組みの理解が「目的とは何か」という問いを解決して,それが「本能とは何か」に対するひとつの回答を与えてくれるのではないだろうか。


3.
AIと身体性って物凄く重要なテーマな気がする。


4.
"リアリスト"と自分を評価しがちな人は,実存的行為を堪能することに満足しているのだと思う。


5.
結局"話が通じる"というのが,人に"あいつは俺らの仲間だ"と思わせる最も大きな条件なんだろうな。

そういえば,そういう”仲間”みたいな意識と,子供の頃にぬいぐるみに対して感じる"大好きな友達"みたいな感情って違うものだ。


6.
えーあいの台頭えーあいの台頭ゆーとりますけども,人類にとっては結局、コミュニケーションの方法が増えるということにしかならないのだろうなという感がある。対人対話が苦手な人が,対AI対話に依存していくというような,そんな感じで。うん。コミュニケーションの多様化というフィールドに全部吸収されてしまうな。人類って無敵なのかも。


7.
AIという極端な存在は,つくづく,人間理解の進展に大きく貢献するなあと思う。得られた数式の変数にゼロを代入して検算する,みたいな,そういうことをAIの研究がしていて,「人間の人間理解」の検算が行われているような,そんな感じ。


8.
世界の理解には,同化から離れて(シラけて)経験をするというスキームと,同化した状態で「こういうパターンの行動をしておけば幸福が最大化するっぽいから世界ってつまりはそういうことなんだな」というスキームがあるよなあ。

同化からの脱出による理解と,同化による理解。

AI研究は,前者のスキームの人間理解,すなわち人に人であることから脱出させて人間理解を促すこと,これを人にさせてくれる。冒頭の発想源の動画は,ひたすらこれをしている。


以上。
備忘録としてしか機能しなさそうな記事になりました。
明日から一週間が始まる〜。
がんばりましょう。

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洗濯物を取り込まねば、と思いながら

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