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朝ドラ、カムカム、ボクの撮影所青シュン記。

思えば朝ドラを丹念に観始めて10年になる。
朝観てるわけじゃないんですけどね。
厳密には録画したやつをエブリディ、エブリナイト。

80年代は普通に家で放送されていたのをチェックしていたんですよ。「おしん」に「澪つくし」から始まり、斉藤由貴の「はね駒」、山口智子を始め唐沢寿明や高嶋ブラザーズが出演していた名作「純ちゃんの応援歌」、藤田朋子の「ノンちゃんの夢」に若村麻由美の「はっさい先生」、黒柳徹子の母をネタにした「チョっちゃん」とかもヘヴィユーザーだったなァ。だいたい一人暮らしを始めてからなんですよ、その習慣が消え去ったのは。

さて今期朝ドラ「カムカム〜」ですが舞台が京都へ移ったあたりからますますボクはこのドラマ目が離せなくなった。だって京都の撮影所じゃないですか。

そもそも東北育ちのボクがどうして京都に移り住んだかってことなんですが、きっかけは1987年秋のことだ。

「きまぐれオレンジロード」の最終回が掲載された週刊少年ジャンプが発売された日。ボクらは修学旅行で京都に来ていた。夜の自由行動は新京極エリアのみしか許されていなかった。同級生たちは「生八つ橋買わなきゃいけないんだよね」(福島弁イントネーション)と土産店がひしめく喧騒へ消えていった。ボクはといえばあらかじめ購入した全国レコードマップを元に新京極から少し外れたところにある中古レコードショップで当時大好きだった60`sのビートブループのレコードを物色していた。そしてなんとなく京都に住みたいなと思っていた。中古レコード店が1軒もない街だったからなァ。冗談抜きで中古レコード店、そして街の雰囲気で移住を決意したってのはありますよ。


京都って街は学生が多い。

時代はバブル真っ盛りでさぞかし恩恵を被ったと思われがちだが、まったくそんなことはなく住んでたアパートは共益費込みの家賃2万円、風呂なしトイレ共同。かなり70年代ライクな学生生活だった。少なくてもボクの周りはそんな連中ばかりだったので特に違和感を持つことはなかった。築40年のボロアパートでボクはせっせと買い込んだフリッパーズ・ギターやピチカートファイヴに聞き入る毎日だ。どちらかといえばライフスタイルはTheピーズだったんだけども。THE時代の真心ブラザーズという説もあるな。

学生が多い街となれば日払いのバイトはけっこうあって自称バンドマン兼業のボクにとってはひじょうにありがたかった。

ある日大学の校門でいきなりボクは(あれは夜8時過ぎぐらいだった)上品そうなご婦人にスカウトされた。行き先は近くの美容院。いつもレコード、CD、本、マンガと金がなく、そのくせバイトもろくにしない怠惰な生活を送っていたボクは渡りに船と飛び着いた。いわゆる美容師さんのアシスタントで切った髪を掃除したりとそれぐらいかと思いきやシャンプーや簡単なパーマのセッティングなど雑務が増え、結局半年ばかり続けただろうか。シャンプーやパーマ液による手荒れ肌荒れがなければ続けていた気がする。

植木剪定のバイトもあった。京都は古くからの家やお寺が多いので庭に昔から生えている木々のお手入れは大事、ということであの頃はまだ職人が重宝されていた。全長2〜3メートルの木の上に登って親方がチョキチョキとお手入れをするアシスタントだが高所恐怖症のボクにとってみれば拷問以外の何物でもない。それでも日給8千円で+お小遣いにおやつに昼メシ付きなので仕送りまで残り300円、、ともなると行かねばなるまいと意を決してボクは耐えた。

そんな貧乏生活を過ごす中、京都にもマハラジャやディスコが祇園のあたり(たしかそうだった)にオープンしてそれなりにバブルを謳歌していたやつは学生でもいたとは思うが、そういう連中と話が合うわけもないので知り合いになることはなかった。愛読書がPOPEYEじゃなくてロッキンオン・ジャパンだからね。まだ判型が変わる前の、山崎洋一郎と市川啠史が誌面で互いの推しアーティストを競ってた時代だ。いち読者には少なくてもそう見えた。

あの頃。1989〜90年頃に関して言えば生徒会長や同じクラスだったKともすっかり疎遠となり、ボクの周りに「ゲイ人」はいなかった。日曜日に「たけしのスーパージョッキー」を観ることもなくなった。あの頃、いったいボクは何をしたかったんだろうか。

もともと好きだったが膨大な量の小説やマンガを読んだ。再生専用のビデオデッキを買い、レンタルビデオで映画を観るようになったのもこの頃だ。音楽サークルには所属していたが「モテる」要素はほぼ皆無の音楽サークルだった。授業もろくに出ることもなく、サークルがある日、バンドの練習日だけボクはキャンパスに顔を出し、あとはひたすらインプットの日々。いったいアウトプット・タイミングはいつ?小林信彦「袋小路の休日」を初めて読んだとき、「ああ、コレはあの頃のオレじゃん」と思うぐらいノー・アクション、ノー・フューチャー(と思っていた)な日々だった。

なので水道橋博士の著作に出てくる、大学入学〜上京、ビートたけしに弟子入りするまでの潜伏期間のエピソードもまた激しく共感した。「ここではないどこかへ」と郷里を飛び出し新しい場所へ移ってみたものの、14歳のとき受けた衝撃を忘れることが出来ずに数年雌伏の時間を過ごしたというエピソードを「藝人春秋」で読んだときボクはこのひとは信用できると思ったんだよなァ。

水道橋博士の書物を通してよく感じるのは人それぞれが持つ業だ。10代で受けた衝撃をそのまま幾つになっても忘れられずに自らの「神」に近づくべく日々のたうちまわるもの、つまり才能に惚れてしまったがゆえの「業」。これを正面から肯定することでそのひとにとっての物語は思ってもみない方向へドライブしていく。

要するにあの頃のボクは自分にとっての「神様」を見つけていなかった。

もしかすると渋谷陽一なのかもしれないと小汚い手書きの原稿を持参し、直接ロッキンオン編集部へノーアポで訪問したこともあった。応対してくれたのは若き日の鹿野淳、これは間違いない。もちろん掲載されることはなかった。原稿用紙10枚にも満たない内容だったことだけは憶えている。だけど肝心の内容に関しては何を書いたんだろうか。まったく記憶にない。

神様は見つからなくても、日々は淡々と過ぎていく。

いつも金がないボクは学生課で見つけたバイトをすることにした。そのバイトに決めた理由は住んでいたアパートから近いという理由。ただそれだけ。そうやってボクは撮影所でのエキストラバイトの沼にハマっていくことになる。

ボクが、京都の撮影所でのエキストラをやり始めて初日のことだった。エキストラのバイトを選んだのは校内の掲示板だったと思う。日給6千円で残業込み。すでに月刊化されていたロッキンオン・ジャパンもツチェックしなければいけないし、時代的にもJ-POP新譜も毎月気になるアイテムが何枚も発売されており、Theピーズのように「全部あとまわし」と脱力フニャモラモードで歌い切るわけにはいかなかった。気になるライブは東京並ではないけれど、大阪まで足を運べば大抵観ることができる。ただしチケットを買うことができればだ。仕送りにも限界がある貧乏学生がそれらのポップカルチャーを満足ゆくまで堪能するにはカ・ネ、、金を稼がねばならなかったのだ。そうやってボクはシュガーキューブスやニューエストモデル、フリッパーズギターのライブへ足を運んだ。シュガーキューブスの前座は大江慎也だった。「い、いまからやるのは最後からに、二番目の曲です」が唯一のMCだったのは妙に覚えてる。


一番最初の現場は中村雅俊主演ドラマだった。
世代的には「ゆうひヶ丘の総理大臣」世代のボクにとって、スタートからついてると思った、、のが大きな間違い。東横映画、つまり創世期の東映を題材にしたドラマで中村は確か若手の監督役。戦争中の映画を撮影するシーンを撮影するところでボクらエキストラの出番となった。

大雨の中、ボクは帝国陸軍二等兵役としてずぶ濡れのまま、雨と泥でぐちゃぐちゃの沼を匍匐前進した。本来撮影は夕方6時で終わるはずが結局この日はリテイクが重なり夜の10時ぐらいに解散した記憶がある。中村雅敏さんが日本酒をエキストラの面々に「おい。冷えるだろ?これ飲んであったまりなよ」と注いでまわってたのはよく覚えている。

「暴れん坊将軍」らしき撮影、「金田一シリーズ」らしき撮影も参加したなァ。らしき、と書いてるのはボクらエキストラにあらかじめ撮影作品のアナウンスなどないからだ。ボクらは朝早くに大部屋に入ると自動的に大部屋メイク担にドーランを塗りたくられカツラを無理やりかぶせられ(サイズなんかあってなかった)大抵小汚い衣装を渡され助監督らしきひとに「おい。ここを叫びながら走れ!」と命令され、きっかけで走った先は殺陣真っ最中、斬り合いの中じゃないですか。で、ボクは怒鳴られる。そしてボクは途方に暮れる。要するに段取りもクソもない現場が一日中稼働してたんですよ。

斬られ役を朝イチでこなして昼から植木売り、着替えて罪人役でお縄になるシーン、最後はもう一回斬られ役、とまあ1日何役もやりました。こんなバイト続けてたらそりゃ大学への足も遠のくよなァ。留年もするって!

と、ボクは「カムカム〜」を見ながら遠い日の自分をやたら思い出す。着々と最終週へと近づいて結末も気になるところだけど、あの回転焼き屋に似た店、北野白梅町と円町のあいだの裏通りにあった記憶あるんだよなァ。気のせいかもしれないけど。記憶を確かめに久々に京都、行きたくなったな。


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