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オレの「俺節」〜1991年、ビッグコミックスピリッツから生まれた永遠の歌。

1991年のビッグコミックスピリッツをいま振り返ると「なにか」が変わろうとしていたタイミングのような気がするのはボクだけだろうか。

この年、松本大洋による「青い春」が連載開始、前作「妻をめとらば」最終回でマンガ史の歴史に残ってもおかしくない最終回を描いた柳沢きみおのトレンディ路線から一変、復讐ノワールものでの意欲作「DINO」、ほりのぶゆきの「江戸むらさき特急」とスマートで都会的なイメージからの脱却を目指していたのかな?とも思うのだが実際どうかはわからない。そんな中で最も衝撃的かつ印象的な連載がこの年始まった。それが土田世紀の「俺節」である。

もう驚くしかないわけですよ。まさかのツッチーこと土田世紀のスピリッツ移籍ですからね。そしてまさかの演歌漫画。毎週スピリッツを買っていたヘヴィユーザーだったボクは遠く離れたはずのわが故郷東北の風景を色濃く描写した初回には度肝を抜かれた。すげえわ、やられたわと思った。

このnoteをずーっと読んでいただいてる方はおわかりのようにボクは小学生時代のほとんどを秋田で過ごした。男鹿半島、日本海の荒波とごつごつした岩だらけの海岸。塩っ辛い風の匂いは住んだものにしかわからない。少年ジャンプは二日遅れで発売、民放は2局のみの文化圏。「俺節」の主人公、海鹿耕治の故郷である津軽もほぼ同じような環境だったはすだ。おそらく首都圏等で生まれ育った方々にはわからぬ苦渋。たとえば秋田に住んでいた頃、ドラえもんが(2度目の)アニメ化となり初回オンエア日がコロコロコミックに記載されていた。当時民放キー局がどうのなど考えたこともないボクは素直にブラウン管の前で待った。いよいよ始まるぞと。ええ、始まりませんでした。ヤン坊マー坊天気予報だけがむなしくブラウン管の中で映るのみ。結局秋田でオンエア開始は半年後とかだった気がする。

その後ボクは小6のときに福島に転校、ジャンプの発売日は1日遅れで民放3局の文化圏。それだけで俺は都会にきたんだと思いましたね。「ザ・ベストテン」を初めて鑑賞、遅れに遅れた様々なポップカルチャーを必死で吸収しようと思いましたよね。その後ボクが高一になる頃には民放も4局となったわけだがそれでも「オールナイトフジ」も「トライアングルブルー」も「冗談画報」もオンエアされないエリア。オールナイトニッポンは第1部で終了。こりゃあかんわと思った。ここではないどこかへ。北へ北へ向かうのではなく目指すはトーキョー・シティだと思ったが結局ボクは京都で大学生活を送ることになる。

餃子の王将も天下一品もまだ本格的全国展開を行っていない時代。街にあるコンビニエンスストアはほぼローソンかファミリーマート。セブンイレブンが弱いエリアだったんですね。ボクは毎週月曜日の朝、近くのファミリーマートで缶コーヒーと最新号のスピリッツを買うのを日課としていた。相原コージの「コージ苑」が終わり吉田戦車の「伝染るんです」、窪之内英策の「ツルモク独身寮」、いわしげ孝「ジパンg少年」にみやすのんき「冒険してもいい頃」(早すぎた全裸監督)、「美味しんぼ」はまだまだ元気だったし浦沢直樹はまだ「YAWARA!」を描いてた時代。あの頃のスピリッツは最強だった。

そんな華やかな誌面にある日突然登場したのが「俺節」だったわけですよ。ストーリー、絵柄と誌面で浮きまくりの熱情がドッカンドッカン暴発しまくりでボクは毎週むさぼり読んだ。講談社時代の「未成年」も「永ちゃん」も読んではいた。なので土田世紀という漫画家は知っていたわけです。東北の片田舎の空気感。あれは体感したものにしかわかりません。北海道とも関西とも九州とも違うわけです。特に秋田、青森エリアは。さびれかけた漁港に必ず出ているイカ焼きの店の切なさは関西によくあるたこ焼き屋やお好み焼き屋の持つ陽性のエネルギーとはまったく逆。そんな空気の中でボクは育った。のちに関西で暮らし始めて「小学校の頃、猛吹雪で視界閉ざされかける中、スキー板を背負って登校した」とか「小学校の体育の時間は校庭に簡易ゲレンデを作ってスキーに明け暮れた」とか「夏の間、天候が悪く1回もプールの授業がなかった」とかまったく信じてもらえなかった。だけど全部実話だ。「またまた鈴木ちゃんは話を盛ってるのう」「オモロイやん。でもな嘘はあかんでぇ」「ホンマなん?ならいうわ。俺も夏の間体育の時間はずーっとナンパに明け暮れたわ!ってなんでやねん」といった具合に。仕方がない。関西文化圏とはそういうものだ。

とにかくボクはそんな関西文化圏で暮らしていた時期に「俺節」と出会った。

東北人にしかわからないかもしれない情念がオーバーヒート気味に絡む演歌漫画は知らず知らずのうちにボクの中で望郷の念をかきたてられたのかもしれない。のちにスペリオールで連載されていた高田靖彦の「演歌の達」が(演歌の)癒し部分を抽出して描かれたものとするならば「俺節」その真逆。傷に塩を塗り込むような残酷さを逃げずに描いている。ゆえにボクにとってこの作品は怖くて、優しい。海鹿耕治とオキナワコンビの別れの章などまさに「男たちの別れ」by Fishmans。2つに分かれることが最初から決まっていたかのような残酷さは妙にリアルに伝わった。そう、結局ひとりなんだと。

レコード会社のディレクター浜田山翔、作詞家の防府下松、マネージャーの唐名新政、事務所の社長の戊亥辰巳にアイドルくずれの寺泊行代。そしてライバルの元人気ロックバンド「ショートホープス」のヴォーカルの座を捨て演歌歌手を目指す羽田清次にコージの元相棒であるオキナワこと南風原太郎。脇を固める登場人物は皆都会の暮らしの中で傷つきながら生きている。もちろん海鹿耕治が憧れ目標としている演歌の大御所、北野波平、作曲家の今賀政美も。皆、ひとり。皆、傷を負っている。

今賀と江刺ソ子とのエピソードなんて今読んでも神回。これぞ演歌じゃないですか。
傷つきながらも、ただ待つ切なさ。いつまでも癒えない傷に響くのは演歌。だからひとは演歌を求める。

そう、誰もがひとり。ゆえに海鹿耕治が上京後、流しの大野に付きながら相棒のオキナワと2人1組で演歌歌手を目指していたけど、オキナワと別れ、やはりひとりでプロを目指していく。恋人のテレサは海の向こう。故郷は遠く、「ひとりぼっち」で闘っていくしかない。まさに演歌漫画。

メジャーデビューするもコージが所属するのは弱小事務所。いきなりソミーレコードから大仕掛けでデビューなんてできるわけもない。それでも演歌界の大御所作曲家、今賀政美の遺作(続きを北野波平が手がけた)によるデビュー曲を手にし、故郷津軽での凱旋公演を果たす。物語中、新宿コマ劇場にも大型歌番組にも出演はかなわなかったけれど、この結末だからこそ多くのひとの心に海鹿耕治の歌は残り続ける。

人生とは必ずしも思い通りにいくものではない。むしろ傷つき哀しいことに出くわすことだらけだ。
ゆえに演歌があるし海鹿耕治は歌い続けている。きっと今も日本のどこかで。

「俺節」を音楽マンガという視点で読み解くと「TO-Y」や「BECK」といったロック漫画と大きく違う点がある。それは歌唱シーンで大胆に演歌の(既存曲)歌詞をぶちこんだこと。この歌詞がキモなんですよね。演歌ってカバーが当たり前のシーンじゃないですか。ゆえに貫通力大。北島三郎だろうと八代亜紀だろうと小林旭だろうと「俺節」の中ではあくまでそのエピソードの中心人物に歌は寄り添っていく。そう、ボクが思ったのは読むひとそれぞれの「俺節」ってことなんですよね。まさに俺の「俺節」。

海鹿耕治の歌として。南風原太郎の、羽田清次の歌として。北野波平の歌として。
そしてテレサや寺泊行代、浜田山翔、唐名新政、戌亥社長の心の叫びとして多くの演歌は機能していく。
もちろん作品を読んでるあなたそのものの歌として。

ちなみに個人的にすげえよと思ったのは「ダイナマイトが150屯」を歌う羽田清次&南風原太郎のシーン。あれはイカしてた。淡々と描かれるコマの連続。それゆえの迫力はさすがとしか言いようがない。

ボクは「俺節」、まだまだ続くと思っていた。だが、耕治がレコード会社と契約、デビューシングルのレコーディングを終え、徐々に物語の終わりが迫っているのをなんとなく感じていた。えええ?ですよね。せめて演歌の殿堂、新宿コマ劇場ワンマンぐらいまでいくものだと思ってたし、オキナワともコンビ復活してというハッピーエンドを予想しながら毎週読んでいた。だけど今にして思えばこの終わりでよかったと思う。ほんのり演歌歌手としての光明が見えつつある、、ぐらいのタイミングでの終わり方。それゆえに今も舞台化されたり完全版で大判単行本が発売されてたりと長く読み継がれる名作になったんだと思っている。

ちばてつやの「あしたのジョー」は真っ白に燃え尽きた。だけど「俺節」の海鹿耕治はきっとまだ歌っている。きっとこれからも。


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