小説 フランシスベーコン(2006年)
トライアングルの音を永久に引き伸ばしたような、ぴーんという微音が、さっきから鳴っていた。――すぐ脇の肩先を見下ろすと、だいたい九十センチメートル四方の薄い油紙が、塗り立てたばかりのペンキみたいにとても生生しい色使いのネイビーブルーの壁にぴったりとくっついている。その左の角が少し剥がれかけて、折からの風に弄ばれて機械のように手を振っている。と思うや、黒っぽい生き物がすうーとスライドしてこちらに近づいてくる。それは正面から間近にみると、全体的に暴力的な風貌だった。具体的に言えば、それは体中血まみれの、片方が腫れ上がって潰れかけた両目をかっと見開いて、どこかで見覚えのある様子の、ごわごわした体毛に覆われている、熊のように黒っぽい男の姿だった。彼は目元のくぼみから、毛糸のような太さをもった白っぽい紐をだいたい五十センチくらいの長さでひょろひょろぶら下げていた。けれども額から上は、破裂して飛散する瞬間の青白い水晶できている、とでも言えばよかっただろうか。光を反射させるようにささやかにきらめいて、そのたびに、赤くなったり青くなったり、緑色になったり紫色になったりする。そのせいでそこだけなんだか妙に人懐っこい感じがした。
静止したまま、ものすごい勢いで滑らかにこっちにまでスライドしてくるので、それを見ていた三島由紀夫は「危ない!ぶつかる!」と思った。だけれどそれも束の間のことで、というのも彼はそのまま彼の体をふうっと通り抜けていくのだった。何の感触もないのが不思議で仕方なかった。振り返ると、そいつは壁に貼られた一枚の和紙をびりっと引きちぎって、目にも止まらぬはしっこさでくしゃっと丸めた。そうして開ききったままのアルミサッシの方に滑っていく。そのまま溶けるように消え失せていく。
幽霊なのかと考えるのだがなんだか釈然としなかった。不安定で、落ち着きのない後味を覚えた。それはなんだか、自分の体が、だしぬけにひょうっと地面からひとりでに三十センチ位浮かんでしまって、着地しようにも着地できない時のような、そこはかとない不安感だった。
「そういえば」だがふと三島は気がついた。
「どこかで見たような、と思ったけれど、あいつはフランシスベーコンの描いた絵によく似ているな」とひとりごちた。頭がすうっとしっくりしていく。
(2006年執筆しはじめて2012年ごろ完成)
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