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イヴァン・イリイチによる価値の回復「言葉の再発見」

 1830年から1850年のあいだに、12人ばかりの発明家がエネルギー保存の法則を定式化した。彼らの多くは技師であり、おたがい独立に、宇宙の流動する生命力を機械の遂行しうる「働き」という観点から再定義したのである。実験室で可能な測定法が、数世紀にわたって「活力」と呼ばれていた神秘な宇宙の連鎖をそれ以降定義することのできる尺度となった。

 おなじ時期に、工業ははじめて他の生産様式との競争に勝利した。工業の達成したものが、全経済における人間活動の有効性をはかる尺度となった。家事、農作業、手工芸、それに保存食作りから家の手作りに至る自給自足活動が、生産の補助的なあるいは二流の形態と見なされるようになった。工業的様式は社会に共存していた生産的な諸関係の連鎖をまずは格下げし、ついで麻痺させたのである。

 このようにひとつの生産様式があらゆる社会関係をその独占下におくということは、そのことを覆い隠している会社間の競争よりはるかに重大なことである。表面的な競争においては、勝利者を、より資本集約的工場とか、よりうまく組織された事業とか、より収奪的でよりよく保護された産業部門とか、不経済を目立たぬように外部にたれ流し、競争のための生産をしている企業と認めるのはむずかしいことではない。

 大きな規模になると、このレースは多国籍企業間、産業化をすすめる国民国家のかたちをとる。しかし、巨人同士のこの命がけのゲームは、ゲーム自体が参加者に提供する儀式から注意をそらすものだ。競争の舞台が拡がるにつれて、同一の産業主義的構造が世界化した社会に強制される。企業的生産様式は資源道具に対してだけでなく、人々の想像力と動機づけの構造に対しても根元的独占を打ち立てるのだ。

 政治システムはそれが自分の手に余るものだということを認識もせずに、同一の膨張的産業主義構造に洗礼をほどこして正反対の信条に引き入れようと競い合っている。社会の深層構造のレベルに対する企業法人の独占が行きつく一点は、人間の産業化と呼ぶことができよう。もし人々が自由でありたいのなら、この潮流は逆転されねばならない。しかし、言葉自体が産業主義的に堕落させられたことが、この論点をおそろしく定式化しにくくしているのである。

 言葉には、産業主義的生産様式の知覚と動機に対する独占が反映している。産業主義的な国民の言語は、創造的な仕事や人間的な労働の成果を産業の産出物と同一視する。西洋の言語には意識の物質化が映し出されている。学校は“教育を!”というスローガンで動くのだが、ふつうの言葉は、子どもは何を“学ぶ”のかと尋ねるものなのである。動詞から名詞への機能的転換は、それに対応する社会的想像力の貧困化をくっきりと浮かびあがらせる。

 名詞優先的な言語を話す人々は、習慣的に彼らがもっている仕事に対する所有関係を表現する。ラテンアメリカではどこでも、労働者であろうが官僚であろうが給料を得ている被雇用者だけが、自分たちは仕事をもっているという。農夫は、自分たちは仕事をするという。すなわち「彼らは仕事をしに行くが仕事はもたない」というわけだ。近代化され組合化された人々は、産業がより多くの商品のみならず、より多くの人々により多くの仕事を生み出してくれるものと期待している。たんに人間がすることだけでなく、人間が欲するものをも指し示すのが名詞なのだ。“住宅”という言葉は活動よりもむしろ商品を指している。人々は知識や移動力を獲得するのだし、感受性や健康ですら獲得する。彼らは仕事や楽しみを“もつ”だけでなく、性すらも“もつ”のである。

 この動詞から名詞への転換は、所有権の観念における変化を映し出すものなのだ。
所有すること(possessing)
保有すること(holding)
獲得すること(seizing)
という言葉はもはや、人々が学校やハイウェイのシステムといった法人的組織に対してもつことのできる関係を言い表していない。道具についての所有を表すいいかたは、道具の産出物や資本が生む利子や商品一般を支配する能力とか、道具の操作と結びつくなんらかの威信を意味するようになる。完全に産業主義化された人間は自分の所有するものを、たいてい、自分のために作られたものとみなす。彼は学校や車やショービジネスや医者から得る商品について、「私の教育」「私の移動」「私の娯楽」「私の健康」といった言い方をする。

 西洋の言語とりわけ英語は、産業主義的生産とほとんど切り離せないものになっている。西洋人は所有関係が自立共生的なやりかたで再建しうることを、ほかの諸言語から学ばねばならぬかもしれない。たとえばミクロネシアの言語には、私の行為の行為に対して、私の鼻に対して、私の親族に対して、私のカヌーに対して、飲み物に対して、またそれと同じ飲み物に対して私が持つ関係をいい表す、まったく違う仕組みが存在する。

 言語がこういう転換を被った社会では、ものごとの属性は商品の言葉で述べられ、権利は希少な資源を求める競争の言葉で述べられるようになる。「私は学びたい」という言い方は「私は教育を受けたい」と言い換えられる。なにかするという決定は、学校化というギャンブルで賭金をせしめることにかわる。「私は歩きたい」は「私は輸送機関を必要とする」という風に言い直される。

 前者では主語は自分自身が行為するものであることを示し、後者では主語は自分自身が消費するものであることを示している。言語の変化が産業の舞台の拡大を支えた。制度化された価値を求める競争は、名詞的言語の使用に反映している。この取り分を求めての競争はいやおうなしにゲームのかたちをとる。人々は自分たちが名詞のかたちで知覚したものを求めて賭博者のように振舞う。もちろんそういう競争は、一方が得れば一方は失うゼロサムゲームとしてお膳立てされるか、それとも、一方が負けたとしても両方とも失ったもの以上を得るノンゼロサムゲームとしてお膳立てされるふたつの可能性がある。

 義務制の学校はゼロサムゲームの一例と解釈できるだろう。つまり存在するのは勝者と敗者だけなのである。というのは、定義からして、学校によって特権を授けられるものは、学校からおとしめられるものよりも少ないからである。ノンゼロサムゲームの見本は個人的輸送から公共的輸送への移行だろう。少なくともさしあたりは、より多くの通勤者が行きたいところはどこへでもより速く行けるのである。

 対立は希少な商品をめぐる競争である必要はない。対立が、自律的行為に対する抑圧を解除する最上の条件をめぐっての意見の不一致である場合だってあるのだ。対立の結果、新しい自由の創造がもたらされることがある。ただしこの可能性は名詞優先的な言葉によってあいまいにされてきたのだ。対立はなにかをする権利、定義からして商品でもなければ希少でもない事柄をする権利を、その双方に対して生み出す。歩く権利や、社会の形成に参加する権利や。平等に話したり意思疎通したりする権利や、きれいな空気のなかで暮らす権利や、自立共生的な道具を使う権利をもたらす対立は、対立する両者からある程度の豊かさを奪い取るだろうが、それはそれと同じ標準でははかれない利得、つまり新しい自由のためなのである。

 いくつかの国々では、言葉の堕落は、商品を要求する権利と自立共生的な道具をもつ権利との違いがわからなくなるほど、政治的想像力をかたわにしてしまった。道具に対する限界設定を公に論じることは不可能というありさまだ、公衆が切迫した論点に対して盲目なのは今始まったことではない。たとえば、人々は何十年ものあいだ、人口制限の緊急性に対して目をひらくこと拒んできたのである。自由と自立共生のために道具に限界を設定するというのは、いまなお提起することのできない論点なのだ。

 重要な選挙の争点として輸送機関の速度制限を掲げるのは、富んだものには考えられもしない思いつきであり、貧しいものには筋違いの思いつきであるらしい。ハイウェイが現れたあとで生まれた人々は速度を欠いた世界を想像できないし、アンデス山地の農夫はなぜそんなに速く移動せねばならぬか理解しかねる。良質な輸送機関の条件として速度を落とすことをあげると、人々はショックを受ける。よき結婚のならわしの条件として性についてもっと率直かつ自由に振る舞うことをすすめたりしたら、一世代前にはわいせつに聞こえたであろうが、今日、道具に対する限界設定をすすめればそれと同じくらいひどく冒涜的に受け取られるのである。

 産業主義的な道具の操作規制は日常の言葉のなかに侵入し、人間の誌的自己証明を辛うじて許される片隅での抗議にまでおしさげている。その結果生じる人間の産業主義化を逆転するには、新しい意識水準とともに、言葉の自立共生的な働きを取り戻すしかない。共同社会の形成に参加する各人の権利を要求し主張する一国民によって使われる言葉は、人々と工学的に設定された技術的手段の関係を明らかにするいわば二次的な道具となる。

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