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【とある地球平面説論者による科学論。】②まず「定性的」と「定量的」ということについて

科学には、「定性的」という言葉と「定量的」という言葉があります。
ぜひ知ってください。

さっそく引用から。
『科学の方法』中谷宇吉郎著/岩波新書より。
初版が1958年で、僕の手元にあるのは1976年の第21刷のもの。

【第八章「定性的と定量的」より】

定性的と定量的という言葉も、科学でよく使われる。これらも科学の方法を論ずる場合には、一応考察しておくべき言葉である。定性的というのは英語のクォーリタティヴの訳語であって、クォーリティ、すなわちものを質的に見ることである。定量的というのは、クォンティタティヴ、すなわちものの量を測って、量的に調べる場合に使われている。科学は自然を認識する学問であると、よくいわれる。自然を認識する第一歩といえば、それは観察である。よく自然を見ることから科学は始まる。ところが普通に観察というと、すぐ小学校や中学校などで、動物とか植物とかを観察するという、あの観察を連想する。そして物理学や化学のような学問は、もはや観察などの域をとっくに離れているように考えられがちである。たとえば力学などは、ニュートンの第一法則、第二法則というものから入っていくもので、観察などという要素は、はいる余地がないように思われている。しかし観察ということは、非常に大切なことであって、このごろのように科学が進歩し、かつ専門化していても、やはり観察を無視することはできない。単なる観察などでは、新しい知識の得られる余地がないように思うのは、まちがっているのである。

「定性的」とは、ものを質的に見ること。
「定量的」とは、ものを量的に見ること。

このふたつの言葉をこのシリーズの最初に紹介したのは、「観察」という行為も立派に科学的なんだということを、しっかりと押さえておくべきだと思うからです。なぜなら、地球平面説は証明(証拠)が無い、という言い方をされることがよくありますが、これはつまり「”定量的な”証明(証拠)が無い」ということを言っているのです。しかしこれは半分は当然なのです。一般人が天のどこまでも高いところや、あるいは南極を、自由に測量することができないからです。しかし高倍率のデジタルカメラでの観測測量において、現行の科学の説明するところの地球の大きさでは見えないはずのものが見える、という観測があります。これは現段階でのフラットアース論におけるほぼ唯一の”定量的”証明と言えるかもしれません。そして残りの証拠のほとんどが”定性的”証明(証拠)です。それは観察によって得られたものです。そしてそれは本来的に、じゅうぶんに科学的な営みなのです。それを忘れないでいてください。

ではもうひとつ、別の書物からさらにまた、この「定性的」と「定量的」についての記述の引用をします。
『科学の考え方・学び方』池内了著/岩波ジュニア新書より。
1996年初版、手元のものは2019年第33刷。

【2章「科学の考え方」より】

科学の出発点は、まず自然をくわしく観察することにあります。観察とは、「よく注意してくわしく見る」ことです。漠然と見ていれば同じように見える現象でも、
よく注意してくわしく見れば、毎日少しずつ変化していることに気づくようになります。それを根気よく続けると、そこに何らかの「規則性」があることがわかってきます。似た現象を集めてきて、共通する性質、異なった性質、変化してゆく性質で分類していくのです。観察を通じて、自然の現象が気まぐれに起こっているのではなく、規則的であり、単純なパターンに分けられることを発見できるということが、科学が成立する最大の根拠なのです。このような、現象の性質を観察し規則性を記述することを、「定性的」研究といいます。博物学は、いわば定性的研究の集大成で、人々に自然の豊かさを実感させました。

観察を、より一歩進めたのが「観測」です。自然が引き起こす現象の性質をくわしく見るだけでなく、「測る」、つまり何らかの尺度を用いて性質を数値に置き換えるのです。そのためには、測る尺度が決まっていなければなりません。もっとも基本的な尺度(単位)は、大きさ(サイズ)、重さ、時間ですね。例えば時間は、星の動き、月の満ち欠け、地面にさした棒の影の長さや方向を観察し、指を使って規則的に変化する数を数え、一年、一月、一日と時間の尺度を確立しました。紀元前四○○○年ころのことです。このように、自然現象の性質を、ある単位で測り、数値化することを「定量的」研究といいます。共通の単位で測っておけば、異なった人の異なった場所での観測結果も、客観的に比較したり、整理したりすることができるでしょう。また、変化や差の大きさが正確に決められ、系統だって現象が記録できるようになります。そして最終的には、数式を用いて表される法則との照合が可能になります。法則がまだわかっていなくても、それがどのような条件を満たさねばならないかを推測することが容易になります。

ひとつめの引用とおおむね同じことを言っていると思います。「定性的研究」とは観察によるもの。「定量的研究」とは観測によるもの。そしてここでは観測を観察よりも一歩進めたものとして扱っていますが、これはひとつめの引用が警鐘を鳴らしているところです。僕はよく「(フラットアースは)見れば分かる」と表現しますが、この言い方を「それはあなたの主観ですよね?」とアンチ陣が一蹴できてしまうのはこのためではないかとも思います。定性的視座である観察を疎かにし、定量的視座である観測に過度に傾倒しているのは、そもそも現在の科学全体がそのような姿勢になっているからではないでしょうか。

さて、この「定性的」と「定量的」ということ、観察と観測の扱いについては、フラットアースと科学が繋がっている、とても大きなポイントだと思います。いわばヘソの緒です。これをどう扱うかという部分が、フラットアース論と現行宇宙論とのあいだで特に大きく違っているところのひとつです(逆から言えば、現行宇宙論を科学から切り離すこともできます)。もうひとつの大きな違いは「再現可能性」の取り扱い方なのですが、それはまたあとの記事で取り上げます。ひとまず、現段階でのフラットアース論において大部分を占めているであろう「定性的」な観察と研究は、科学にちゃんと含まれるということを、ここでしっかりと言っておきたいと思います。念押しします。それは科学なのです。絶対に忘れないでください。
あとは一歩進んで、この世界の隅々をもっと「定量的」に観測・測量できたら、そしてそれを僕らひとりひとりが心ゆくまで自由に行えたら、もう優勝です。そのときは一緒に金メダルをかじりましょう。

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