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【とある地球平面説論者による科学論。】③そして再現可能性の取り扱いについて

それではさっそく次に「再現可能性の取り扱い」について引用します。同じく『科学の方法』より。
ひとまず長い引用になりますが、とても大事なところだと思うので割愛しません。ですので、まずいったん全体の文脈を捉えたうえで、後ほどまた改めて重要な箇所を抜粋し、それについて少し述べます。
以下の引用は、同書の本文の書き出しから7ページぶんの全文になります。

【第一章「科学の限界」より】

科学について、何かを論じようとする場合に、まず取り上げるべき問題は、科学の限界の問題である。今日われわれが科学と称しているものには、その取り扱い得る問題に、限界があるか否かということを、まず検討してみる必要がある。

今世紀にはいって、科学が非常に進歩し、特に自然科学が最近になって、急激な発展をとげたことは、今更述べ立てるまでもない。いわゆる人工頭脳のような機械ができたり、原子力が解放されたり、人工衛星が飛んだりしたために、正に科学ブームの世の中になった観がある。そしてこの調子で科学が進歩をつづけて行くと、近い将来に人間のあらゆる問題が、科学によって解決されるであろう、というような錯覚に陥っている人が、かなりあるように思われる。

もちろん科学は、非常に力強いものではあるが、科学が力強いというのは、ある限界の中での話であって、その限界の外では、案外に無力なものであることを、つい忘れがちになっている。いわゆる科学万能的なものの考え方が、この頃の風潮になっているが、それには、科学の成果に幻惑されている点が、かなりあるように思われる。これは何も人生問題というような高尚な話ではなく、自然現象においても、必ずしもすべての問題が、科学で解決できるとは限らないのである。今日の科学の進歩は、いろいろな自然現象の中から、今日の科学に適した問題を抜き出して、それを解決していると見た方が妥当である。もっとくわしくいえば、現代の科学の方法が、その実態を調べるのに非常に有利であるもの、すなわち自然現象の中のそういう特殊な面が、科学によって開発されているのである。

それはどういう面かというに、まず第一に、一番重大な点をあげれば、科学は再現の可能な問題、英語でリプロデューシブルといわれている問題が、その対象となっている。もう一度くり返して、やってみることができるという、そういう問題についてのみ、科学は成り立つものなのである。なぜ再現可能の問題だけしか、科学は取り扱い得ないかといえば、科学というものは、あることをいう場合に、それがほんとうか、ほんとうでないかということをいう学問である。それが美しいとか、善いとか悪いとかいうことは、決していわないし、またいうこともできないものである。

それでは科学で、ほんとうであるというのは、どういうことかということを、まず考えてみる必要がある。ごく簡単な場合についていえば、いろいろな人が同じことを調べてみて、それがいつでも同じ結果になる場合には、それをほんとうというのである。もっとも同じことを同じ方法で調べることができない場合もある。しかし人間が自然界を見る時には、いつでも人間の感覚を通じて見るわけであるが、この感覚を通じて自然界を見ることによって、ある知識を得る。その得た知識と、ほかの人がその人の感覚を通じて得た知識との間に、互いに矛盾がない場合には、われわれはそれをほんとうであるという。そうでない場合には、それはまちがっているというわけである。

感覚を通じて自然界を認識するといったが、その中で一番簡単なものは、いわゆる測定である。ものを測るというのは、どういうことであるか。そのくわしいことは、第三章で更に述べるが、ここでは簡単な場合だけについて考えよう。ものを測るということは、測ろうとするものと同じ種類のもので、ある一定の量のものをとって、その量と比べてみることである。この一定量を単位というが、目的とするものが、この単位の何倍あるかを調べることが測定である。「何倍」というのは、もちろん整数である必要はなく、コンマが幾つついていてもかまわない。しかし、何倍という以上、これは数値でもってあらわされる。この数値であらわされるということが、大切な点であって、いったん数値になれば、これに数学を使うことができる。自然現象を数値であらわして、数学を使って知識を綜合していく。これが科学の一つの特徴である。これを反面からいえば、自然現象の中から、数値であらわされる性質を抜き出して、その性質を調べるという方向に、科学は向っていることになる。自然現象をただあるがままに見ただけでは、手のつけようがない。それでいろいろな方法によって、得られた多くの知識を整理していくのであるが、そのうち一番簡単なものが測定なのである。自然現象を数値であらわして、その数値について、知識を深めていく。これが科学の基礎となっている方法である。

この方法について、検討してみるために、そのうちでも一番簡単な場合、すなわち「ものの長さを測る」という問題について考えてみよう。今あるものの長さを測った場合に、ある単位とくらべてみて、何倍あったかという数値が得られたとする。その価がほんとうかどうかということは、誰がそのものについて、同じ方法で測ってみても、いつでも同じ価が出るかどうかということである。それで測定という、自然科学における一番基本的で単純な操作は、何べんでもくり返して測ってみることができるということを、はじめから仮定しているのである。すなわち再現可能の原則を、はじめから仮定しているわけである。

一番分りやすい例として、次のような特殊な場合を考えてみよう。世界中に物差が一本しかなくて、その物差は、一度ものを測ると、こわれてしまう性質のものだとする。そういう物差で、ものを測ったときに、どれだけの長さがあったとか、どれだけの量があったとかいっても、それは全く意味がない。別に精度がどうであるとか、あるいは不確かだとかいう問題ではなくて、そういうもので測った価というものは、原理的にいって、科学の対象にはならないものである。科学という学問は、そういうものにはタッチしない学問なのである。というのは、そういう価がほんとうであるかまちがっているかということは、原理的にいえないからである。何べんでくり返して調べることができ、そしていつでも、また誰が測っても、同じ価が出る場合に、それをほんとうであるというのであるから、このような再現不可能の問題は、科学では取り扱い得ないのである。

こういうことをいうと、科学ではただ一度しか起らない現象でも、取り扱っているではないかといわれる方があるかもしれない。たとえば、ある種の彗星のようなものがそれである。彗星の中には、太陽系に一度まぎれ込んで来るだけで、そのまま飛び去って行くものがある。そして一度飛び去ってしまえば、あと永久に太陽系には再び帰ってこない、そういう種類の彗星もある。ハレー彗星のようなものは、軌道が細長い楕円形をしているので、何十年かたっと、また戻ってくる。そういうものならば、いかにも再現可能のように見える。ところが中には、双曲線の軌道をもっているものもある。もっともこれは少しあやしいのであるが、少くも抱物線すなわちパラボラの軌道をもった彗星は、よく知られている。地物線の軌道だと、これは太陽系に入ってきた時に、一度だけは観測できる。しかしいったん遠ざかっていったならば、あと永久に二度とは帰ってこない。そういう彗星はたくさんあって、一つ一つの軌道は皆ちがう。この場合は、一つの彗星を二度と観測できないのであるから、再現可能でないように思われるかもしれない。しかし彗星などは、もちろん立派に科学の対象となるべきものであって、これはほんとうは、再現可能の中にはいっている現象なのである。再現可能といっても、物差でものを測る場合のように、誰でもすぐくり返してやってみられることと思っては、いけないのである。ということは、再現可能とはいうものの、実際に二度くり返すということは、たいていの場合できないことである。

現在のいろいろな自然科学の問題について、大勢の学者が、あらゆる方面で研究をしていて、いろいろな結果が発表されている。ああいうものを、一々もう一度同じ条件でくり返してみるということは、実際上は不可能なことである。また誰もそういうことはやっていない。ちゃんとした研究をして、こういうことをやったら、こういう結果が出たと論文に発表する。そういう論文を読んだ時、いかにもその通りだ、なるほど、自分もあの装置を用いて、同じことをやったならば、このとおりの結果が出るだろうと信用する。実際問題としては、それより仕方がないわけである。こういうふうに、再現可能と信用できるということが、再現可能な問題なのである。

ここで、信用するということは、どういうことか、はっきりさせておく必要がある。ある人が、ある問題について得た知識が、今までわれわれの知っていたほかの知識に当てはめてみた時に、従来の認識との間に、矛盾がないとする。矛盾がなければ、いかにもそれはそうであろうと信用することができる。科学の世界にも、信用という言葉があるが、これは道徳の方でいう信用とはちがう。互いの知識の間に矛盾がないという意味である。一番分りやすい例は、化学の方でよく調べられている希土元素である。めったにない元素、プロメチウムとかホルミウムとか、聞いたこともない名前の元素が、元素の周期表の中には、たくさん出ている。これらはみな実際にあるものと、誰でも思っているが、おそらくああいうものを専門にやっている人は、世界中にごく少数しかいない。特殊の例外の場合を除いては、世界中を探しても、あんなものを見た人は誰もいないであろう。たいていの希土元素は、めったに見られないものである。このごろの超ウラン元素などになると、原子の数にして何十とか何百とかいうものが、分離されただけというものもある。そんなものは、誰も見た人がない。しかしその存在は信じられている。見たこともないものを、なぜ皆が信ずるかというと、そういうものから得た知識が、今までにわれわれがもっていたほかの知識に、矛盾なくうまく当てはまるからである。従って、もし自分もこれと同じ研究をしたならば、同じ結果が得られるであろうという確信がもてる。要するに、同じことをくり返せば、同じ結果が出るという確信がもてることが、再現可能という意味である。

はい。科学における再現可能性についての記述でした。
すでに脳が爆発した人も、腹を抱えて笑っている人もおられるでしょうが、以下にもう一度改めて、重要だと思われるところを抜粋します。まずこちら。

現在のいろいろな自然科学の問題について、大勢の学者が、あらゆる方面で研究をしていて、いろいろな結果が発表されている。ああいうものを、一々もう一度同じ条件でくり返してみるということは、実際上は不可能なことである。また誰もそういうことはやっていない。ちゃんとした研究をして、こういうことをやったら、こういう結果が出たと論文に発表する。そういう論文を読んだ時、いかにもその通りだ、なるほど、自分もあの装置を用いて、同じことをやったならば、このとおりの結果が出るだろうと信用する。実際問題としては、それより仕方がないわけである。こういうふうに、再現可能と信用できるということが、再現可能な問題なのである。

「また誰もそういうことはやっていない。」「実際問題としては、それより仕方がないわけである。」というあたりも印象的ですが、あるいはこれらの記述は筆者である中谷宇吉郎氏(Wikipedia)のいち私感に過ぎず、よって科学全般について広く概観して述べていることであると捉えるべきではないのかもしれません(そう疑えるほど衝撃です)。しかし中谷氏は旧京都帝大の理学博士でしたし、国からも勲等や位階を受けています。そしてこの書籍『科学の方法』も初版は1958年で、僕の手元にあるものでも1976年の第21刷のものです。ですので、広く公に権威をもって述べ伝えられ、また受け入れられたものであると、ひとまずそう受け取って良いと思います。それにフラットアースの観点からも、さもありなんと得心できるところでもありますし。

それでは以下、さらにあともう2箇所を抜粋します。その再現可能性の「信用」について。

ここで、信用するということは、どういうことか、はっきりさせておく必要がある。ある人が、ある問題について得た知識が、今までわれわれの知っていたほかの知識に当てはめてみた時に、従来の認識との間に、矛盾がないとする。矛盾がなければ、いかにもそれはそうであろうと信用することができる。科学の世界にも、信用という言葉があるが、これは道徳の方でいう信用とはちがう。互いの知識の間に矛盾がないという意味である。
見たこともないものを、なぜ皆が信ずるかというと、そういうものから得た知識が、今までにわれわれがもっていたほかの知識に、矛盾なくうまく当てはまるからである。従って、もし自分もこれと同じ研究をしたならば、同じ結果が得られるであろうという確信がもてる。要するに、同じことをくり返せば、同じ結果が出るという確信がもてることが、再現可能という意味である。

ここでは「従来の知識と新しい知識の矛盾の無さ」イコール「信用できる」としていて、そのことが2度も繰り返されています。当然ですが、間違っている従来の知識に対して新しい知識が矛盾なく整合しても、やはり間違いでしかありません。しかし再現可能性に対して、そのような手順で信用を置くという作法(あるいは暗黙のルール)によって、現行の科学そして宇宙論は、途方もなくうず高く積み上げられていき、また受け入れられていったのだということはわかると思います。

さて、このような再現可能性の取り扱いについてのここまで詳細な記述は他の書籍では今のところ見当たることができず、『科学の方法』からのみ紹介することになりましたが、また見つかれば必ず引用します。とても大事なポイントです。ひとまずここでは、現在の科学において再現可能性はこのように取り扱われている、あるいは扱われてきた、またはこのようである可能性がある、ということをいったん知っておいてください。このシリーズでは今後、フラットアースと関わってくる重要で著名な科学実験や理論について述べることもあるかもしれませんが、この「再現可能性ガバ過ぎ問題」の存在を常に視野に入れておいてください。それは本当の科学の在り方から現行の宇宙論を切り離し、フラットアース論へ接続し直すことのできる大事なコネクタパーツです。
では最後にこの「再現可能性ガバ過ぎ問題」と関連する、我らがアイザック・ニュートンの有名な言葉を引いて、本記事を締めたいと思います。ニュートンはこのような言葉を残しています。

私が彼方を見渡せたのだとしたら、それは巨人の肩の上に乗っていたからです。

オリジナルは12世紀フランスの哲学者”シャルトルのベルナルドゥス”という人物のようですが、コトバンクというサイトでは「昔から先人たちが積み重ねてきた学問の成果や技術などがあってこそ現在の学問や技術がある、ということのたとえ」と紹介されています。一方では先人への敬意を示し、また自分を戒める慣用句としての扱いですが、もう一方では、科学とは先人の研究の上に積み重ねてゆくものであるという指針を示すものとしても扱われているようです。
実際にGoogle Scholarという論文検索サイトのトップページの検索ウィンドウの下には、この「巨人の肩の上に立つ」という文言が表示されてもいます。しかしその表示は、場違いに映るほど浮いた妙な色合いをしたダサいゴシック体で、どことなく文字幅も自信なさげで、漂白的に白い背景の海の上に不安げに浮かぶように表示されています。

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その巨人の再現可能性がガバ過ぎることに、果たして気づいているのでしょうか?

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