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「科学」という言葉そのもの

とかく「科学」とか「科学的」などという言葉を使うと、それはそのまま「事実的」とか、場合によっては「真理的」などというイメージに勝手に頭の中で変換してしまいやすい。これは立派ないわば現代病ではある。またある場合には「計算的」とか「論理的」のように、その理路の筋道がちゃんと通っていることを意味するように響きもする。これまた立派な現代病であるし、あるいは知らず知らずいつのまにか"矯正"されてしまった感覚なのかもしれない。フラットアース説は科学的である。この言い方はある場合には正しい。球体地動説は科学的である。この言い方もまたある場合には正しい。共に「科学的」でありながら、しかしその結論は相反している。「科学」あるいは「科学的」とは何か?その"言葉"は(それは言葉だ)いったい何を意味しているか。

日本語の「科学」はscienceの訳語として1874年に西洋思想家の西周(にし・あまね)という日本人によって翻訳された。『科』という漢字は"分類されたひとつひとつ"を意味し、scienceが物理学や天文学などいろいろな分野を含む点に着目したことによる。ではその「science」という英語の言葉はどこから来たのか。これの大元はラテン語の「scientia」で"知識・知ること"を意味し、このままの意味では14世紀ごろから使われていたらしいが、しかし現在も意味するところとなったのは1834年、イギリスの数学者で哲学者のウィリアム・ヒューウェルがその著作の中で専門的な化学者や物理学者などをひとまとめに「man of science」と呼び、また「scientist」(科学者)という言葉を"造語"したところから始まっていると見てよいはずだ。そしてこの6年後の1840年にはオックスフォード辞書にその「scientist」が初出した。

もちろんこの1834年にはすでにコペルニクスはその一世一代の渾身の大奇書を世に放っていたし、ガリレオは科学史上で最も有名なセリフのひとつを吐き終えていたし、ニュートンのリンゴはとっくに落ちた後だ。フーコーが自作の振り子を初めて人前でゆらゆらと揺らしたのはこの17年後の1851年のことである。そしてこの時期は産業革命期にあたり、国家社会にとって専門職としての職業科学者が必要とされた時期である。以前なら彼ら研究者はかつてはアマチュアであり、natural philosopher(自然哲学者)と呼ばれていたが、やがて専門化と分化が進んでいったことで一旦その呼び方は解体され、しかしここでもう一度新しい呼称で統合されることになったのだ。彼らはもうnatural philosopherではなくsceintistである。これはそんな時期のことであり、日本語の「科学」という言葉の元ネタである「science」はこのあたりの事情に端を発している。

しかしだからといって現代日本の一般社会の中で「科学」という言葉を使うときには「19世紀以降の西洋科学」を意味していないといけないと言いたいわけではもちろん無い。それは屁理屈に過ぎない。んなもん勝手にすればよろしい。ただし球体派がときおりやむにやまれず「これは科学的である」という言明だけをバックボーンとすることがしばしばあるが、その場合にはどういう意味で「科学的」という言葉を使っているかについて、その語源と由来について、彼らがそのなけなしのエネルギーを割き、ほんの少し想いを馳せていてくれると嬉しいとは思う。そうすればその点においてはたしかにフラットアースはまったく"科学"的ではないし、球体地動説はバリンバリンに"科学"的なのだ。僕はそのことをすすんで認める。フラットアースはまったくもって19世紀以降の西洋科学的では無い。当たり前である。いっしょにしてもらっちゃ困るのだ。それ以前の、コペルニクスやガリレオが吸った空気。さあ、自然哲学の話をしようじゃないか。

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