見出し画像

【とある地球平面説論者の科学論。】⑥なぜ彼ら科学者は全員間違えたままなのか? 〜科学者と、その職業界について〜

<まえがき>
前回の科学史についての記事でも触れたように、現在では一般には「科学者」とは職業的科学者のことを指す。彼らは専業であり、専門職であり、それによって生計を立てている。だがフラットアースの見地から言って、彼らは全員間違えている。なぜなら現在の天文学や地学そして宇宙論が間違えていることを発見し、指摘し、公に問うことが全くできていないからである。なぜそういうことが起きるのか?
もちろんひとつには、現在の科学という分野は地動説が主流となった18世紀以降にようやく成立したものであり、科学者という職業もまたそれに則って成立したものであるからだとは言える。しかしもちろん広く一般には科学者は科学の専門家であり、よって彼らが最終的に提示する内容は正しいとされているのが現在の常識である。また分子生物学でのX線結晶構造解析のパイオニアであるJ.D.バナールの著書「歴史における科学」(鎮目恭夫訳・1965・みすず書房)では、

一般の人からみれば科学とはどういうものであるかを知るよりは、科学者とはどういうものであるかを見分けることのほうがずっと容易である。実際、科学のひとつの安直な定義は、科学とは科学者がしているものであるということである。

という記述さえある。
だがこれは確かに一般ではその通りなのである。しかし我々は、その科学者についてほとんど知らない。なのでここで一度、科学者とはどのような存在であるかを見て、なぜ彼らは全員間違えたままなのかを少しでもわかるようにしようと思う。
トピックは大きく分けてふたつ。ひとつはお金に関する事柄、そしてもうひとつは論文に関する事柄である。今回もやはり一般に流通する文献を引用していくが、それでも視点は多岐に渡るため、やや雑多な羅列になるかもしれないが、最終的には全体像が浮かび上がってくるものと思う。
なぜ彼ら科学者は全員間違えたままなのか?

<お金に関して>
科学者が職業である以上、お金についてから見る。まず研究費について。宇宙論を専門として名古屋大学の名誉教授などを務め、科学論に関する著書も数多い池内了氏の著作『科学者心得帳』(2007・みすず書房)より、「研究費の仕組み」の章での説明を僕が大まかにまとめたものが以下。

まず人件費や消耗品や電気代などを含んだ全ての費用を賄う「経常研究費」として、国立大学の場合、国から運営費交付金という形で各大学に配当されるが、その60%は人件費という大学がほとんどで、研究に当てられる資金が枯渇している。私立大学の場合、国からの補助金はごく少額で、ほとんどの経費を学生の授業料で賄うため、研究費に回る予算は”雀の涙ほど”であり、それだけではほとんど研究が行えないのが実情。つまり現在の日本の大学では、教員が自分の研究のために自由に使える経常研究費はほとんど無きに等しい状況である。
そこで政府はというと、経常研究費を少なくし、「競争的資金」を獲得せよ、という方向を強化している。競争的資金の代表的なものは、文部科学省による”科学研究費補助金”(略して通称:科研費)である。経常研究費の配当は年々減っているが、この科研費の方は年々増えているようで、研究者の命綱となっている。採択率は23%そこそこ、とある。
この科研費の良いところは、登録された研究者が審査員となって決めるところであるが、この方式には問題点もあると以下のように指摘されている。

①審査員の多くが国立大学の教員であるためか、私立大学への配分が少なく、これは統計でもはっきりと示されている。
②これまでの研究実績に重点が置かれ過ぎているため、新しい分野開拓への採択が少ない。
③審査員に権威主義があり、著名な研究者の申請には採点が甘い。
④審査員の姿勢の問題として、明確に理由を示さないで非採択にしてしまうことが多い。

また科研費そのものについても問題があると著者は言う。

①重点領域研究、特定研究、特別推進研究など大型の研究費を保証する分野項目が増えたが、1億円を超えるようなものになると予算の消化に苦労し、結局は出来合いの大型装置を買い込むのが普通となってしまい、決まりきったデータは多数出るが、本当に新しい結果が得られるかどうか疑問符をつけざるを得ない。科学がルーチン化し、質より量で勝負することになりかねず、世界で一つしかない設備を手作りして貴重なデータを出すという風潮が失われていく心配もある。
②科学がより体制化してゆく懸念がある。これら大型の科研費の課題の多くは文部科学省の専門家会議で決定されているが、戦前には戦争に協力する課題が優先され、その反省から戦後は公募の研究課題に限っていたが、徐々に指定された課題が増えてきている。科研費は新しい分野を開拓することにこそ意味があるのだから、課題を限定しないほうが趣旨に合っている。
③競争的資金を通じて、大学の淘汰が図られようとしている。
④成果至上主義の激化。競争的資金の獲得競争に煽られて手っ取り早く成果を上げようとする雰囲気が大学にまかり通り、じっくり時間をかけた研究や基礎から積み上げた地道な研究がなおざりにされかねない。
⑤競争的資金の獲得のためには、研究室を主催する教員が膨大な申請書を書き、必要書類を整え、また打ち合わせの会議やヒアリングの準備を行わねばならず多忙になり、自らが直接実験や計算をする余裕がない。これによって研究室が論文生産工場と化す。
⑥このような競争原理が若手研究者にも波及し、じっくり次世代の科学者を育てる気風が薄れつつある。研究の何たるものかを十分経験しないうちに一人前扱いをし、結果的に大成する芽を潰している。

さらに著者は、競争的資金とは国が特別の予算立てをして募集するものであるから、財政逼迫などを理由にしていつでも止められるので、いつまでもそれを当てにすることができない、という点に注意すべきであるとも付け加え、また、国家の意図的な政策に使われ易いことも留意すべきで知らぬ間に科学が誘導されていく危険性もあり、戦争に関わるテーマが掲げられたときに研究者は果たして拒否するだろうか?とも言っている。

『科学者心得帳』からは以上。
では以下に、国立研究開発法人科学技術振興機構研究開発センターという、国の科学技術イノベーション政策に関する調査・分析・提案を中立的な立場に立って行うとされている組織のHPのコラムから引く。その組織のセンター長であり、ノーベル化学賞も獲得している化学者である野依良治氏によるもので、その中にこのような指摘がある。

2018年8月23日(27)『研究費の獲得競争を考える』より
大学において研究費獲得が目的化していないか。研究者に聞けば、大学運営には間接経費が不可欠なので、金額的に野心的な申請を促される。論文成果だけでなく、獲得総額も評価項目であるいう。「競争優位性依存症」に苛まれ続け、まことに気の毒である。

資金量と創造性はまったく無関係である。職業制度を離れて無支援の一科学愛好家なら、いったい何をしたいのか。他方、百万長者で、無制限にお金を使えれば、何に挑むのか。本来、綿密に研究計画を立て予算を積算し、配分査定がなされるべきである。近年、逆に申請可能額や実際の受領額に研究課題を決めてもらっているのは本末転倒ではないか。

創造のための最大の資源は、みずみずしい好奇心と自由、すなわち大学人であることを確認したい。若者はいま一度、素朴な問題にひとり思い悩んでみてはどうか。過大な研究費の受領にはある種の義務感が伴い、学者としての自由を束縛することになる。歴史的にも好奇心に溢れる科学者が、身の丈にあった資金を得て時の常識を超える成果を上げてきた。戦中戦後の劣悪な教育研究環境の中、わが国は多くの卓越した理論物理学者、化学者を生んだ。実験費用の乏しかったわれわれ世代の多くも、基盤的校費でささやかながら独自に芽を育み、のちに国際的に認められるところとなった。大規模ではない、しかし独自性ある実験成果が注目され、米国一流大学に招かれた有機化学者も少なくない。昨今、学術と科学技術は強く関連するが、学問とは本来そういうものであろう。

さらに以下、生物学を専門として早稲田大学の名誉教授である池田清彦氏の著作から引く。ここは、業績評価システムと紐付けて、科学者個人の「成功」ということについて語られているのが印象的な記述。

『科学はどこまでいくのか』(池田清彦・1995・筑摩書房)
「第七章 科学のゆくえ -理科ばなれ-」より

さらに科学が細分化されてくると、研究成果がその分野の研究者以外にはわからなくなり、普通の人に対するアピール度が落ちてくる。また、業績評価システムが、質より量に傾いてくると、科学はイチかバチかの独創的な研究というよりも、ルーティンワーク(きまりきった仕事)に近くなる。なぜならば、革命的な研究を狙うと、それだけはずれる危険が高くなり、論文の生産性は落ちざるを得なくなるからである。さらには既存の分野に属さないほど独創的な研究は、発表する学術誌を見つけることすら困難になってしまうからである。いきおい研究者はパラダイムの枠内の、すぐに論文になる仕事しかしなくなる。そうしないと論文数が不足して、よい地位を得られないからである。大論文を一篇書くより、小論文をたくさん書き、単著論文を一篇書くより、共著論文をたくさん書く、といった具合に、研究者はだんだんセコくなってくる。このような科学が、才能と野心のある若者をひきつけなくなるのは当然で、それはさらに科学のルーティン化に拍車をかける。ごく幸運な例外を除けば、独創的であることは科学者として成功するための条件ではなく、失敗するための条件なのである。

研究費については以上。
ではここから延伸させて、以下に不正行為や倫理についての記述を含んだものを引用してゆく。まず先ほどの『科学者心得帳』から。

「はじめに」より
社会の生産力や効率性の追求における科学の力が高く評価されるにつれ、科学を国家の制度として取り込み、意のままに制御しようという動きも強くなった。国家による科学研究のための資金援助は年々増大し、科学者の数は三〇年で二倍ずつ増加している。科学者は、ごく普通の人間が選び取る職業の一つになりつつあるのだ。とはいえ、多くの専門的訓練を必要とし、一般の人々には知り得ない知識を有するという点ではプロフェッション(専門職)の地位も保ってはいる。言い換えれば、科学者は、専門の分野におけるエリート的な地位にありつつも、専門から一歩外れると一市民に過ぎないというアンビバレントな存在となりつつあるとも言えよう。
そのような科学者の社会的地位の変化があるためか、社会の動向について批判的な発言をするIT社会の未来など、科学者が社会に伝え共に考えるべき課題がより多く山積しているというのに、社会に密接した科学者が数えるほどしかいない。科学者の数は増加したが、その存在感は薄れている状態なのである。その責めの多くはシニアの研究者(私も含めて)が負わねばならない。

その背景には、科学研究の現場に「経済論理」と「競争原理」が持ち込まれ、研究以外の事柄に興味を示す余裕を失っていることがある。「経済論理」とは、ひたすら業績を挙げることが強く要請され、それに応じて研究費の配分がなされるようになったことだ。自由に使える経常研究費が極端に絞られ、「競争的資金」と呼ばれる公募制の補助金を稼がねば研究が続行できなくなっている。そして、「競争的資金」を獲得するためには継続的に論文を発表していなければならず、業績至上主義に走らざるを得なくなった。ひたすら、競争して勝たねばならないのだ。それによって、社会的な事象に気を払っている暇はないと思い込んでしまった。現代が織烈な競争社会になっているのだから、科学者の世界も例外ではなく競争原理は当然、と思われるかもしれない。しかし、果たしてそれが何をもたらすかをじっくり考えてみる必要があるだろう。

その悪弊として、データの捏造など科学者の不正行為が続々と摘発されていることとが挙げられる。それは科学者が競争原理に追い詰められた結果ではないだろうか。業績を挙げねばならないという強迫意識が禁じ手を打ってしまうのだ。(と言っても、私はかれらを庇っているわけではない。倫理観を喪失した科学者は、科学者の名に値しないからだ。)

では次に、科学振興団体による記述を見る。日本学術振興会という日本の国立アカデミーと繋がりの深い団体が発行している『科学の健全な発展のために-誠実な科学者の心得』という、一般向けというよりも科学者向けの著作から引く。
これによれば、研究不正にあたる行為として「捏造(fabrication)」「改竄(falsification)」「盗用(plagiarism)」の3つが世界的に定義されていて、頭文字をとってFFPと呼ばれている。
まずは「捏造」と「改竄」に関しての部分を。

「5.研究不正行為とは何か 5.2 捏造、改ざんの例」より
捏造、改ざんは、そもそも真理を探究するという科学研究の目的に反する重大な裏切りですが、科学者コミュニティに対する社会の信頼を失墜させ、また、人々の健康と安全に害悪を招くことすらある行為であることを認識しなければなりません。さらに、科学者が公表したデータを信じて追試を行う他の科学者に、その時間や労力、研究費を空費させます。 ある科学者が新しいアイデアを発表したときには、他の科学者はその真偽を確かめ、一緒になってその研究を先に進めようとします。捏造、改ざんは、科学者間で競争しながらも、それぞれの研究を積み重ねつつ、互いに協力して科学を発展させていこうとする科学者コミュニティの土台を壊してしまう行為です。

続いて「盗用」についての部分。

「5.3 盗用の例」より
著者の発表した研究は著者のオリジナルであり、その内容である情報、アイデア、文章は、著者自身のものであることを前提にしています。 この信頼を裏切る行為が「盗用(plagiarism)」です。 盗用はオーサーシップの偽りの一つですが、「誠実さ(honesty)」という科学者個人の倫理的資質の欠如を意味するもので、重大な職業倫理違反行為でもあります。また、盗用は著作権法違反として処罰されることもあります。

ここからわかることは、それらの不正行為は、基本的には、科学コミュニティの社会的信用の喪失と、その科学者個人の職業倫理違反としてコミュニティ内で扱われるのみで、著作権法の違反でもない限り、社会罰に当たることはない。学問界なので当然ではあるが。

ではさらに続いて今度は、同じような立ち位置と目的で書かれた、米国科学アカデミー(科学技術についてアメリカ連邦政府に助言するよう議会から承認されている学会)の発行する「科学者をめざす君たちへ(池内了訳・1996・原題:On Being A Scientist〈科学者であるということについて〉)」から引く。

「10 科学における不正行為」より
単純な間違い、手抜きによる間違いに加え、第三の間違いがある。それはデータや結果を勝手につくりあげる行為(捏造)、データや結果を改変したりいつわって報告する行為(偽造)、引用を正しくせずにほかの科学者のアイデアや言葉を使う行為(ひょう窃)である。これらすべては、科学が基礎を置く価値観を根底からゆさぶるものである。これらの不正行為は、科学の発展を阻害するばかりでなく、科学という営みが依拠するすべての価値をおとしめるものである。このような行為を行ったものは誰であれ、科学者としての生命が危ぶまれるだろう。初めはたいしたことがないと思える不正行為でも、最後には厳しい罰がくだされるのだ。

これまでの章で議論してきた倫理違反 -引用を正しく行わないこと、手抜きによる間違い- は、まだ科学者のコミュニティー内部の問題である。通常、これらの違反はピアレビューによる同僚の審査、研究所当局の措置、研究現場でのポスト指名や評価システムを通して、個々の問題として処理される。しかし、不正行為を犯した場合は、科学者集団内部にとどまらず、非常に深刻な結果を招くことがある。それは科学者集団以外の人間に害を及ぼすかもしれず (捏造された結果が医学的処置につながるような場合)、公金を浪費したり、科学を批判的に見ている人びとの注意をひきつけることになるだろう。その結果、国の機関・議会、メディア、裁判所なども巻き込む容易ならざる事態になるかもしれない。

かりに科学者のコミュニティー内に限定しても、時間のロス、他の科学者からの信頼の喪失、個人的な裏切り行為に対する嫌悪感のために、不正行為は人びとの心を荒廃させてしまう。個々の研究者、研究機関、そして研究という営みそのものが、たとえ事件とは関係がなくても、捏造・偽造・ひょう窃行為によって嘆かわしい被害をこうむることになるのだ。

フラットアースの見地から言えば、もはや「知らんがな」である。
では最後に同書からさらに科学的倫理違反についての部分を引いて、「お金」についてのパートを終え、もうひとつのトピック「論文」のパートへ進むことにする。

「11 科学的倫理違反とその対応」より
一人の研究者が遭遇するかもしれない最も困難な状況の一つは、研究者コミュニティーの倫理規範を同僚が違反するのを見たとき、あるいはそのような疑惑を感じた場合である。そのようなとき自分が何もしないためのいいわけを見つけることは簡単だが、不正行為を目撃した者は行動しなければならないという、いやな義務を負っているのだ。不正行為のもたらす害毒で最も直接的なものは、自分自身や同僚の研究の大きな妨害となったり損害を与えたりすることである。広く見れば、たった一つの不正行為でも、科学者や研究機関に対する中傷がなされ、科学研究の足かせとなるような規定が押しつけられ、科学全体に対する社会的な信頼をゆるがせかねないこともある。

実際、倫理に反する行為についての疑惑を告発することは、そうたやすいことではない。必ずというわけではないが、ある場合には匿名とすることも可能である。訴えられた者や疑われた者が報復したため、深刻な結果を招いてしまったことが過去にあったからだ。不正行為を告発する場合、どのような告発であれ重要な責任が伴うため、真剣に考える必要がある。もし間違えば、告発された者も告発した者も、そして研究機関や科学自体も、とり返しのつかないダメージを負うことになるだろう。

(中略)

研究という仕事は、初心者にも経験を積んだ者にも多くのプレッシャーをかけるものだ。研究代表者となると、研究費を集め、学生をひきつけなければならない。学部スタッフとなると、研究に費やす時間と学部学生を教育する時間の割り振りを考えなければならない。また企業からの援助を得たら得たで、利害の衝突が起こる可能性もある。

研究のどの局面でもこのようなプレッシャーが存在することをしっかりと把握し、きちんと対応する責任が課せられている。研究機関は、その科学方針を常に点検し、科学倫理に対する科学者の自覚を促すよう援助し、自らの定めた科学方針が研究者間に徹底するよう努力しなければならない。そして科学者は、倫理に基づいた決断が科学者としての成功に大いに影響することを常に自覚していなければならない。


<論文に関して>
さてここまでで、科学の職業界を取り巻く様相やその力学や空気感はなんとなくでも案内できたものと思う。ここからは論文について見てゆくことにする。科学者にとって論文とは研究発表の場であり、現行の科学学問にとってはまさに「内容」である。ではこの論文とは一体どのように扱われているものであるかを見てゆくことにする。

論文の質を担保しているとするのは「査読制度」と「追試」である。特にこのふたつについて見てゆく。
①査読制度
書かれた論文はまず科学雑誌に投稿されるが、その際、雑誌の編集者が、論文の内容と同分野の研究者にその原稿を送り、審査をさせる。この審査に通れば、雑誌に掲載され、通らなければ掲載されない。この制度によって、発表された論文の質は保たれているとされる。
池内了氏の同じく『科学者心得帳』にも、

第二章 科学研究の現場
「レフェリーとの遣り取り」より

同分野の研究者(ピア)が論文を閲読(レビュー)するシステム(ピアレビュー)は、論文の質を保つため、そこに必ず新しいことが加わっているかどうかを確認するとともに、その内容や表現を(間違いがないかどうかまで)チェックするのが目的である。その意味で、ピアレビュー制度は現代科学を成り立たせている重要な根幹と言える。

とある。
しかしこの制度にも問題はある。引き続き同書より引用する。

第二章 科学研究の現場
「論文の要件」より

ピアレビュー制度そのものに問題がないわけではない。レフェリーに選ばれると、公式に発表される以前に結果を知ることができる。(レフェリーは原則的に同じ分野の研究者が選ばれるし、論文投稿者にはレフェリー自身が自ら明かさない限り名前は知らされない)。そこで、レビューの回答を遅らせ、その間に同じ結果をあたかも自分が発見したかのように発表する、というような悪辣なことが起こりうる。まだ誰も結果を知らない段階だから、果たしてどちらに先取権があるか決着が付きにくいことになってしまうのだ。このような事態は滅多に起こらないが、ないわけではない。(むろん雑誌の編集者は投稿された論文を読んでいて判断ができるはずなのだが、そこまで熱心な編集者は少ない。)そのような被害に遭わないためには、論文を書く前に予備的な結果を学会で発表し、研究の進行状況を一般に公開しておくのがよい。 学会講演は業績書には載らないが、先取権を明らかにしておく機会とすることができるのだ。

また、ピアレビュー制度があっても、必ずしも論文の捏造や偽造が見破られるわけではない。レフェリーが実際に実験を行ったり、シミュレーションを自ら再現したりするわけではなく、論理的に正しく、結果が不自然でなければ受け入れるのが普通であるからだ。研究者はウソを吐かないという前提で論文を見なければ、とてもレフェリーをやっておれないこともある。また、世の中には多数の論文が出版されており、それ全部に目を通すことができないから盗用論文であったとしても気づかないことが多い。それもやむを得ないことである。

このような不正行為が摘発できないためにピアレビュー制度に不信を持たれることが多いが、それに代わる制度は今のところ考えられない。論文を閲読するレフェリーの数を増やせば不正の摘発率は上がるだろうが、論文発表までの時間がかかるし、研究者の負担も重くなるだけである。(レフェリーに当たると自分の研究時間を割いて他人の論文を読まねばならないし、通常は無償のボランティアで、謝金があっても極めて少ない。) ほとんどが健全なレフェリーであるのは事実だから、問題はあってもピアレビュー制度を存続させるべきだと考えている。

はっきり言って、なかなかに不安定な制度に聞こえる。
次に引くのは、科学史・科学哲学が専門で、東大の名誉教授である村上陽一郎氏の著作『科学者とは何か』(1994・新潮社)から。やはり査読制度について。

4 その行動様式
「<サムシング・ニュー>の判断」より

専門家集団には、それ独特の知識体 《a body of knowledge》 とでも言うべきものがある。それは、その領域に特有の設備や実験装置を通して得られた知識の総体であり 、しかも、そうした知識体は、そうした装置や設備をどのように使って、どのような手続きに従ってデータを手に入れるか、というような、データや知識を組み上げていくに際して必要なセッティングについても、その専門家集団に固有で共通の暗黙の了解と、それに基づく蓄積とが前提されてはじめて成立するものである。

その領域の「専門家」であるということは、そうした暗黙の了解やセッティングを熟知しているということであり、またその前提に立った上で、自分たちの集団が共有している知識体の全貌が何であるかを熟知しているということを意味している。だからこそ、そのようなセッティングの上に立って、論文のなかに盛られた内容が「サムシング・ニュー」であるかないかを判断できるのは「専門家」だけになるのである。

その前提的基盤の上に立って、レフェリー(註:査読者)は、その領域の専門家として、投稿された論文原稿の審査(註:査読)に当たることになる。すでにはっきりしているように、その際、その内容が、自分たちの共有し、共通財産として所有している知識体に対して、「何か新しいもの」 《something new》を付け加えるかどうか、が最も重要な審査の判断基準として置かれるのである。その論文の内容が過去にすでに誰かが報告したり主張していたことであり、つまりは、すでに自分たちの共有財産としてもっている知識体のなかに含まれてしまっているものであれば、これは、発表する意味は全くないと言わなければならない。そのとき、その論文は当然のこととして掲載を拒否されて、著者に差し戻される。

しかし掲載を拒否されて、著者に原稿が差し戻されるのは、こうした、言わば「二番煎じ」である場合だけではない。その前に、その専門家の共同体の共有する知識体と、その前提としてある研究のためのセッティングとを踏まえていない、言い換えれば、専門家の共同体の敷いた路線から、さまざまな意味で外れているような内容を持った論文原稿は、それだけで拒否の対象となる。

たとえばいわゆる素人、非専門家が、たまたまある領域に関して、新しい発見をしたと信じたとしよう。その人が、その「新発見」を論文に仕立てて投稿したとしても、その領域の専門家の共同体のレフェリーは、仮にその「新発見」が、確かに彼らの共有財産である知識体に「新しい何か」を付け加えるものであったとしてさえ、恐らくは、最初から、その論文を拒否する公算が高い。その理由は、論文の「書き方」という、ある意味では形式的な問題にある。専門家は、そういう論文
を書くときに、何は書かなくてはならないか、何は書いてもよいか、何は書かない方がよいか、何は書いてはならないか、を知っている。というよりは、それを知っている人のことを、現在では「専門家」と呼ぶのである。そのノウハウは、上に広く「セッティング」という大まかな言葉で網掛けをした多くの事柄と関わるものである。 非専門家の書いた「論文」が、専門家の目に、一目でどこか馴染まないものとして映るのは、まさしくその点である。そして、その「馴染まない」という感覚は、その投稿論文を拒否する立派な理由になる。ほとんど例外なく、そうした原
稿は、いわゆる「門前払い」という処置を受けるだろう。

めちゃくちゃである。が、専門家にとっては、これは当たり前に映ることなのであろうとも当然思える。
さらに先ほどの研究開発センターのHPにも『論文査読制度(ピアレビュー)の信頼性の揺らぎ』というタイトルのコラムがあり、ここでは引用はしないが良ければ参照されたい。これは2018年の記事なので、より現在の状況に即しているとは思えるが、特に改善されてはいない。が、同記事によると”煩雑な査読を経ない自己責任の未公表論文(プレプリント)のオンライン公開が始まった”とのことではある。これは1960年代から着想はあったようだが、1991年に物理学分野、2013年に生物学分野、2017年に化学分野で創設があったそうだ。これらで公開された論文は、科学研究費の配分の審査の考慮対象とされるようではあるが、肝心の科学的評価は、”のちほど論文を受け付けた科学誌により適正になされるべきとする”とある。おそらく結局同じことではある。
査読制度については以上。

②追試
追試は、論文が雑誌に掲載された後に、その論文に記された実験や分析を、別の研究者が再現して真偽を確認することである。この追試によっても論文の正当性は確保されたと見做すのではあるが、もちろんここにも問題がある。

2002年の「シェーン事件」と呼ばれる、有機物の超伝導体作成についての業績を捏造したとされる科学不正問題を例にあげて、池内了氏の『科学者心得帳』にこのような記述がある。

第三章 科学者の倫理責任 
『科学の「犯罪行為」捏造』より
一般に、物理学のようなハードサイエンスの(要素還元主義的で明確な証拠が示しやすい) 分野では、捏造は起こらないと考えられていた。すぐに追試されて決着がつくので、捏造の余地が少ないためである。しかし、シェーンの場合、二年以上も暴かれることなく捏造が続いていたのだ。そこにはいくつか理由が指摘できる。

一つは、研究のテクニックや装置が高度化して、同じ分野の研究者であっても簡単に追試できなくなりつつあるということだ。追試するためには高級な装置を購入せねばならず、さらに実験の成功には微妙なノウハウがあると言われれば、追試に成功しなくても疑うことができない。その上、レター論文や特許がからむ場合、論文に実験の詳細が記載されておらず、簡単に追試できないという困難もある。
また、専門分化が進んだため、同分野の専門家といってもそう多くの研究者がいないことも挙げねばならないだろう。 追試が決定的に重要であるにもかかわらず、それが容易にできないため捏造が見逃されてしまったのだ。

二つ目として、研究者間に権威主義があるということを指摘しなければならない。「サイエンス」や「ネーチャー」という超一流の雑誌に投稿・掲載されていたり、共著者に著名な実績のある研究者が名を連ねていたりすると、信用せざるを得ない雰囲気になってしまうことだ。 レフェリーの審査もつい甘くなることも否定できない。科学の世界では実際の研究成果のみが権威を持つものであるはずなのに、雑誌や共著者という別個のものの権威がいつの間にか大手を振るうようになっていたことを反省すべきだろう。

このあと、3つ目の理由に、当該研究所の上層部と雑誌編集者の動きの遅さ・毅然とし対応しなかったことを挙げ、4つ目の理由に、論文に特に関わっていない人物が、権威づけや論文数を増やすために共著者に加わっていたり、また内容に反対しそうな人物が査読者に選ばれないようにするために共著者に名前だけを並べておいたりする場合すら”ひどいときには”あることを挙げている。普通にとんでもない話である。この4つ目の理由は、名目上の共著者である研究者による追試が行われにくいことを示していると思うが、それでもそれを一般的な状況であるとまで扱えないとは思うため、一応ここでは強調しない。

さらに叡啓大学の准教授である粥川準二氏による2006年のウェブ記事『追試研究を高く評価しよう』には、このような記述がある。

科学の世界では、論文に書かれているものと同じ材料を用意し、同じ方法で実験しても同じ結果が出ないことがずっと問題になり続けています。このことは「再現性の危機」と呼ばれることもあります。

問題になり続ける理由の1つとして、研究の追試(再現実験)が重要視されていないということがあります 。たとえ科学者が他人の論文に書かれた研究の追試を行っても、新しい知識がもたらされるわけではなく、彼らにとって何の利益にも実績にもならない、したがって追試をしたりその結果を発表したりする動機がなかなか生じない、と捉えられているようです。

そればかりか、後述する『ネイチャー』の社説は次のように指摘します。

『多くのジャーナル(学術雑誌)は、追試研究を評価することを拒んできた。また科学者の多くは、もし(追試の)結果が(もとの実験結果と)一致しなかったとき、諍いが起こるようなことをしたいとは思わない。そのため内情に通じていない科学者たちは、袋小路を探索することで時間を無駄にするか、もしくは本当に展望のある研究に対して疑い深くなってしまうかである。』

このことに対して、科学コミュニティも手をこまねいているわけではありません。
たとえば今年7月19日、オランダで、世界で初めて国が追試に助成金を支出するプログラム「リプリケーション・スタディーズ( 追試研究 )」が開始されることが発表されました。このプログラムは、社会科学や医学研究、医療イノベーション分野における重要な研究結果を再現できるかどうかを検証する科学者のために、今後3年間に渡って300万ユーロを支出するものです。

つまり、追試は「制度」ではないということである。あくまで個々の研究者たちの自発性に任されているが、助成金を出す必要があるほど、研究者にとって追試を行うメリットは大変に低い。同記事内にあるが、ネイチャー誌が「追試をより有効なものとするためには、研究者はもっと追試を行なわなければならないし、予算提供者はそれを奨励しなければならないし、ジャーナルはそれを出版しなければならない」と主張するほどであるようだ。
さらに同記事で、

一方で、こうした試みの限界も指摘されています。まず、こうした追試を行った者は報復されるリスクを負う可能性があるが、それに見合うほどの対価は得られにくいこと。また、追試の結果がジャーナルに掲載されたとしても、たとえば人事委員会や助成金の審査員からは評価されにくいこと。したがって「ニワトリが先か卵が先か」という問題が生じることになります。

『研究者は厳密な追試を実施したり公表したりしたがらない。というのは、それらは評価されないからである。そして追試は評価されない。というのは、ほとんど公表されないからである。』(註:おそらくネイチャー誌社説より)

とまで言われている。
そして先立って紹介した、日本の科学アカデミーと繋がりのある団体が著した、科学研究者たちへ向けた手引書である『科学の健全な発展のために』においても、アメリカの科学アカデミーによる『科学者をめざす君たちへ」においても、「追試」に関するはっきりとした記述は見当たらない。前者には索引があるが「追試」という項目すらない(僕は文字通り目を丸くした)。

それでは最後に、さらに追試について、印象的な記述を紹介して、このパートを終える。『背信の科学者たち』(W・ブロード・N・ウェード著 牧野賢治訳・1988・化学同人)という訳書で、この本は、現代の科学者たちだけではなく、プトレマイオスやニュートンのような”偉大な科学者たち”も含め、そのタイトルのように「科学的不誠実さ」をテーマに取り上げていて、本国アメリカではサイエンス誌やネイチャー誌の書評でも取り上げられて話題になったらしい。それでもこの本はそのような目線から書かれているために、本記事で扱うにはややアンフェアだと思い、できるだけ引用したくはなかったのだが、しかし追試に関しての詳細な記述のある文献は思いのほか少ないため、最後にここで紹介しておくことにする。

第4章 追試の限界
『再現のむずかしさ』より

ある実験を厳密に追試するという問題は、ひとたび厳密さということを基準に考えてみれば、ますますむずかしいものに思えるのである。これまで述べてきたシンプソンとトラクションの追試(註:1961年、ミトコンドリアのタンパク質合成機能の立証に関する研究において、ある共通の知人の研究者が介したことで、当初の論文中の実験結果を再現できないことを、全ての機器や知識が手元にある本人たちが気づいて、追試の実施にまで漕ぎつくことができた)は、たぶん科学の歴史においても非常にまれな事例の一つであり、再現性という哲学者の理想が達成されている。しかし、現実には、次のようないくつかの理由から、厳密な追試はむずかしいのである。

(i)不完全な実験法
公表された実験の記述は多くの場合不完全である。その主要部分は省略されないが、実際の実験技術に関する詳細は省略される。調理の本の中で、誰もが知っていると思われる調理法の細かな部分は省略されてしまうのと同じように、科学者も記述を省略するのだ。しかし多くの場合、実験法の細かな部分が実験の成功を左右するものである。著者はその逆を装っているが、細かな点は、おそらく親しい研究者仲間だけにしかわからないのだ。重要ではないが必要な細部を故意に省略することさえ多々見受けられるのである。新しい発見を行った研究者は先取権ということのために発表を望む一方、発見の結果を詳しく研究する間、それを自分のものとしておきたいと望むものだ。やや不完全な実験法を発表することは、こうした両方の目的にかなうことになる。

(ii)入手できない試料
多くの場合、実験の繰り返しには、かなりの時間と費用が必要になる。実験装置の購入や技術の習得、そして生物学においては、しばしば特殊な細胞や試薬を調製する必要があり、場合によればその実験を始めた人から借りなければならない。また、追試というものは必ず行わなければならないものでもなく、科学者は結果が重要だと信じる場合にだけ、追試を行おうとするだろう。

(iii)不充分な動機
いかなる場合に追試が重要なのか。簡単に言えば追試は重要とはみなされておらず、それゆえめったに実施されることはない。この一見驚くべき状況は科学の報奨制度にその根本的な原因がある。報奨はオリジナリティに対して与えられ、二番手には何も与えられない。 複製は当然オリジナルとはみなされないのだ。特異な状況を別にすれば、他人の実験を追試し、確認しても、何の栄誉も得られないのである。また現実に、ある実験を追試できなくても、さして重大なことではなく、科学者は困難な状況をおしてまで追試の結果を発表しようとはしないものである。もし、排他的な目的で仲間の研究の正当性の検証が行われるのであれば、結果の正否にかかわらず追試で栄誉が得られることはまずありえない。

<あとがき>
さてタイトルにある質問、「なぜ彼ら科学者は全員間違えたままなのか?」に答える時がきた。僕ならこう答えよう。
とてもではないが彼ら職業科学者は、現行科学の筋道から外れたものを発表どころか研究すらできない。一般人が思う以上に科学者と科学界には余裕はなく、その学問が一般に標榜するところと違い大変に閉鎖的な世界である。そのために結果的に、彼ら科学者は全員間違えたままでしかいられないのだと。
よくある質問。「科学者が全員嘘をついているとでも言うのか?」にはこう答えよう。彼らは嘘をついているのではない。メインストリームに則った論だけが最終的に世間に流通するように、システムがすっかり出来上がっているだけなのだ。それは職業なのだ、科学者とは職業なのだ、彼らにとって科学は職業なのだと。「フラットアーサーはなぜ論文を書いて発表しないのか?」にはこう答えよう。なぜ間違いを正すこともできない科学界を通す必要がありますか?そしてだからこそ、私は今こうして直接、論をあなたに届けようとしているのではありませんか、と。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?