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【とある地球平面説論者による科学論。】⑤科学と社会とのつながりの歴史をざっくり概観する

<はじめに>
かつて科学はアマチュアが行うものであった。ニュートンは大学の教授であったが数学の専門であったし、ガリレオの研究はメディチ家がパトロンであった。彼らの時代でさえ自然哲学つまり科学は教育機関で扱われることもなく(化学は扱われた)、科学家たちは本業の合間をぬって、あるいは聖職者や貴族など余裕のある立場の人間によって、その研究は行われるものであった。それが変化してゆくのは18世紀以降である。ここで科学は産業の発展に役立つ学問と認識され、また国家の発展と威信のためにも教育に組み込まれ、そこで専門家の育成訓練が国家的に行われるようになり、職業としての科学者が成立する。
今回は、現在の科学のありようを見定めるため、科学と社会とのつながりの大まかな歴史の流れを概観する。しかしその歴史の流れは複雑に絡み合っているため、年表のように箇条書きにするよりも、筆者の手で改めて物語を編み直したほうが良いように思うので叙述形式で進めてゆく。

<二度のルネサンス>
現行の科学はつまり西洋科学である。東洋科学を含めその他の地域や信仰下における科学は現在では西洋科学が駆逐してしまったと言える。そしてその西洋つまりヨーロッパでは、二度のルネサンスが起こった。12世紀と14世紀である。ルネサンスは古典古代の文化の復興運動であるが、科学の領域にもそれが起こり、また現在の科学の発端もここにあると見れる。
まず12世紀のルネサンスでは、アリストテレスやプトレマイオス(天動説)などの古代ギリシアの科学者(自然哲学者)の思想が復活し、著作の翻訳がされた。しかし当時に覇権していたキリスト教教義に対してその内容が矛盾するため、それらは教義と融合し、体系化された(この体系はスコラ哲学と呼ばれる)。
そして14世紀のルネサンスでは、プラトン哲学・ヘルメス思想・ギリシア数学など、12世紀のルネサンスでは甦らなかったものがさらに復活した。ここで「数学的自然観」や「実験哲学」や「原子論」など、現在の科学の自然認識のスタイルの萌芽が生まれ、またそれらは12世紀のスコラ哲学への対抗思想ともなる。

<大学と学会の誕生>
12世紀のルネサンスで「大学」が誕生するが、その運営は、権力と威信の保持そして思想的統制を図るためにカトリック教会が深く関わり、教会は大学を支配下に置いた。しかし当然そこでは教義と融和するスコラ哲学が主流であり、またその在り方は閉鎖的であったため、14世紀のルネサンス以降では、教会の支配の及ばない新しい学問共同体である「学会」が誕生した。この学会のパトロンは世俗の富豪であり、つまり教会の対抗勢力である。自然科学を専門とする最古の学会のひとつは1603年にローマで誕生した「アカデミア・デイ・リンチェイ(山猫学会)」で、ここにはガリレオも所属していた。
そして当時の学会の中でも特に、1660年に発足した「ロンドン王立協会」と1666年に発足した「パリ王立アカデミー」はその後の学会のふたつのモデルとなり、また現行の科学界のスタイルと繋がっているので、詳細を紹介する。

・ロンドン王立協会
王立と謳っているが、それは権威の象徴としての名目であり、ほとんどは会員の会費による運営の私立であった。ここでは最古の科学雑誌「フィロソフィカル・トランザクションズ(哲学紀要)」が1665年に創刊されたが、これは今日も続いている科学雑誌つまり研究発表の機能を果たす媒体の先駆けであり(ちなみにニュートンの「自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)」もここから出版された)、協会は新知識を持ち寄って論じ合うことに重きが置かれた。

・パリ王立アカデミー
科学研究の社会的有用性を主張し、またパトロンの財政難に見舞われたこともあり国家の援助が必要であるとも訴え、さらにルイ14世の威信誇示のために、こちらはロンドン王立協会と違い、国家の直営となった(しかし給料は少なかったらしく会員は兼業であった)。よって会員は各自の研究テーマに加えて、国家からの依頼により研究をすることとなる。そのテーマは、地球の測量・地図製作・軍事機械など、そして工場制手工業の発展に伴う織物・染色・陶器・鉱山・治金などの技術の監督や改善である。さらに国内の特許や論文は全てこのアカデミー会員が審査することとなった。

このふたつの学会は対照的である。ロンドン王立協会は比較的アマチュアの性格を残しているが、パリ王立アカデミーはすでに国家の機関としての機能を有している。

<17世紀科学革命>
またこの14世紀のルネサンスの変化の後に、科学における大きな転回が起こっているので一覧しておくことにする。まずコペルニクスによる地動説の提唱(1543年『天球の回転について』)があり、続いてケプラーによるケプラーの法則の発表(1609年『新天文学』)が地動説を発展させ、天文学と物理学が融合する契機ともなる。そしてガリレオが自作の望遠鏡による天体の観察結果を発表し(1610年『星界の報告』)、ニュートンが万有引力を発表する(1687年『自然哲学の数学的諸原理』)。フラットアースの見地から言えば、地動説と重力、そして独自の機器の独占的使用による観察結果の提示(ガリレオの自作望遠鏡からハッブル望遠鏡まで)など、球体説パラダイムを支える基礎がここで出揃ったと言えるかもしれない。
またこの時期は15世紀後半から印刷技術が登場し、それまでは口述や筆記によって知識が伝えられていたのが、より広範囲に簡便に伝えられるようになったことは大きいし、さらに16世紀前半には宗教改革があり、15世紀半ばから17世紀半ばまでは大航海時代でもあった。社会全体が大きな変化の最中にあったと言える。

<科学の専門分化>
19世紀、1834年にケンブリッジの数学者であり哲学者であるヒューエルが「サイエンティスト(科学者)」という造語を生んだのは象徴的である。これは当時に科学の専門分化が進み、以前には「自然哲学者」や「自然研究者」などと称されていたのが次第に「物理学者」「化学者」「博物学者」などそれぞれの専門分野に従って呼ばれるようになった彼らを、改めて専門家の総称として総括して呼称するためであった。またこれは、以前には地続きだった哲学と科学が切り離されたことをも意味する。そして専門の学会が相次いで誕生したのも19世紀であった。専門分化を可能にしたのは、専門家を養成するための訓練が行われた教育制度であるが、それにより科学は洗練され、また”巨人の肩に乗る”ことができるようになってゆくと同時に、一般には理解の難しいものへと変容してゆく。

<科学の職業化>
さきほどの「サイエンティスト」という造語の出現は、職業的科学者の呼称を必要としたことをも同時に意味している。順序としてはまず科学を教育し訓練を施す教育者としての職業科学者が必要になったが、教育界ではなく産業界で必要とされて大規模に職業的科学者が登場するのは、1760年代から1830年代にかけて起きた産業革命以降である。ここで「職業的科学者」と呼ぶのは、以前のように兼業であったり、パトロンの支援を必要としたり、研究するだけの余裕のある特権的地位の人間のことではなく、フルタイムで専業として科学に携わる者のことを言う。これが歴史上で初めて登場したのがこの時期であった。
この変化には、科学研究の社会有用性を主張する科学振興団体が19世紀前半から各国に相次いで誕生したこととも大きく関わる。そしてその活動は各国それぞれの事情に合わせて行われ(領邦国家分立状態のドイツではナショナリズムの高揚機に統一と自由のシンボルとなり、イギリスでは福音派プロテスタントを批判する姿勢を持つキリスト教の広教会派の人間が、団体初期の指導者のほとんどであった)、そこにヨーロッパ社会は市民権を与えた。
産業革命が特に科学と社会の繋がりにとって大きな意味を持つであろうのは、手工業から機械工業へと移行したことで企業間の技術競争のために科学者のニーズがあったこと、さらにそれが国家単位での競争となり科学の社会制度化がそれぞれに進んだこと、また産業革命はイギリスからヨーロッパ全土へと拡大し、その発展によってヨーロッパ文明・文化全体が世界の覇権を持ったことが挙げられる。同時にそれは近代資本主義的な産業化社会の種であったと言え、それはそのまま現在の社会における科学の扱いの萌芽である。

<科学と国家>
近代細菌学の祖のひとりであるルイ・パストゥールが、1888年の彼の研究所の開所式にこう述べた。「科学に国境は無いが、科学者には祖国がある。彼の業績が世界中に及ぶとしても、その成果を持ち帰るべきは彼の祖国である。」
産業革命以降、19世紀後半には科学が国家を左右するという認識は高まり、国家が大規模に投資をし、研究の大型化も進み、ビッグサイエンスの潮流へと進んでゆく。科学の国際組織が出来たのも19世紀に入ってからであり、これは科学が国家単位で行われるようになったことをも逆説的に示すものでもある。
また産業とのつながりにおいて、企業内にも職業的科学者のポストが生まれ、産業的枠組みにおいて研究が行われるようになると同時に、その産業上の要請によって科学研究者の養成のための大学付属の研究所(特に物理学の研究所)も設立されるようになった。この大学附属研究所もまた国家の支援を受けてのものである。特にケンブリッジ大学附属のキャヴェンディッシュ研究所は多くの著名研究者を教授職に擁し、ノーベル賞は2019年までで30人、1930年まででも9人で、その中には電子の発見者であるJ・J・トムソンや、原子核の発見や原子模型の発表で原子物理学の祖とされるアーネスト・ラザフォードなどがいる。
このキャヴェンディッシュ研究所は現代科学における実験物理学の聖地であり、もしもフラットアーサーがテロリストであるならば、本物の飛行機をNASA本部の次にここに突っ込ませるであろう。

<おわりに>
さて、ものすごく大雑把に見ていったが、概観としてはこのようなところで良いのではないかと思う。もちろん細部はより複雑に絡まり合って歴史は進んでゆくので、興味があれば『科学の社会史』(古川安・ちくま学芸文庫・2018)をぜひ参照されたい。この記事はこの本をベースにし、大いに参考にした。この本ほど充実した内容のものは今までのところ見当たらなかったし、科学史の定本として評価も高いようなので、ひとまず一般の論を、また正史を追うためには、とても都合が良いと思う。
なぜフラットアース論が正史を追う必要があるのか?それは現行の科学を根こそぎ否定する可能性のある立場として、フラットアース論を古来の古典的な自然哲学の領域から捉えようとするとき(現段階でのフラットアース論の科学的証拠・証明は、そのほとんどが定性的検証によるものであり自然哲学的な博物学的手法である)、つまりそれを広く”正式な”科学としてあらわして伝えようとするときに、さかのぼることのできる道筋の目処をつけるためであり、たどることのできる理路を知るためであり、根付かせることのできる土壌を用意するためである。

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