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科学は抜き出す

科学は全能では無い。これは現代の科学界の俎上においても一応言えることではあると思う。もちろん中には、科学は本来本態的には全能であって、ただ現在の科学が未だ追いついていないだけであると考える向きもあるかもしれないが、それでもやはり科学は全能では無いのではないか。それは地球がほんとうは丸くないのに丸いと見做してしまっていることから言える指摘ではなく、現在の科学の範疇においてもおそらく言えることである。ある程度"節操のある"科学者なら、控えめに肯いてはくれるのではないかとも思いはする。戦前から戦後の物理学者で雪の研究で有名な中谷宇吉郎さんはその著書の中で、科学が対象とできる物事はあくまで自然の中からある要素を人為的に"抜き出してきた"ものについてのみである、というようなことを述べていた。そう考えると、これは結局は球体説そのものの間違い(あるいはその間違い方、そのふるまい)とも多かれ少なかれ符号してはくる。

まだ科学が科学とは呼ばれずに自然哲学だった頃の遥か昔、アリストテレスが月食の暗い部分だけを"抜き出して"、それを大地の影だと見做した。そしてそれを観察してゆくと常に丸いので、大地を球状だと考えた。これは抜き出し方で間違えたと言えなくもない。抜き出した後にそれをどうラベリングして処理するかで結果は大きく違ってくる。コペルニクスの場合はもっとわかりやすい。彼は自然の中から天体の動きだけを抜き出して処理し、人間の身体感覚を後に残した。ニュートンも同じで、いわばリンゴだけを抜き出して煙草の煙を置き去りにした。この思想のあり方は西洋医学にも現れていて、西洋医学では病気や変調そのものにしかフォーカスしないそうだ。つまり症状やその部位だけを仮想的に"抜き出して"処理をする。東洋医学の場合は患者の心身両面の全体を診ようとするそうだが、西洋医学ではその抜き出したファクターだけを仮想的な真っ白な何もない”精神と時の部屋”的な空間に単独的に隔離し移設しておいてから改めて処置し、残りは置いてきぼりなのである。その残りの部分は現実の実際には抜き出したファクターと繋がっているはずだが、それは考慮しない思想のようには見受けはする。

だから我々が「科学」と平素日常で呼ぶところの現行西洋科学に則れば、つまり「科学的根拠」というのは、人為的に抜き出してきた要素でもって計算し、計量し、あるいは考察した根拠であるということでもある。でもそれはそれで良い。誰しも何しも全能ではない。抜き出して処理する以外に無いことだってある。何も抜き出していないそのままの自然をまるごと計算し計量するということは想像さえも困難なことでもある。しかし問題はその抜き出し方の正当性について、今一度、あるいはいつも常に、注意を払う必要があるということだ。科学や医学にとどまらず、この現行の社会生活一般においてもそれが忘れられていることはもしかすると多い。

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