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フラットアースからの原子論【平面説の路地裏から】

僕らのいるこの陸や海の世界を含めた宇宙論全体について現行の科学は間違えている、ということがわかったあとで、次に原子論に目がいくのはわりと自然な成り行きではある。宇宙や地球という、人間にとって大き過ぎるサイズの事柄に対して、原子論は人間にとって小さ過ぎるサイズの事柄だからでもあるし、自転や公転のくるくる回る構造が、原子のまわりを電子がくるくる回る構造と似ているからでもある。ただこれは現在では、原子のまわりに電子が雲のようにぼんやりと存在しているという説明が主流のようで、量子力学の以前と以後でそのように変更されたと思う。ともあれ宇宙論であれ原子論であれ、この世界ないし自然がどうであるかという範疇で同じである。

原子は人間の目には見えない。ただ原子が見えるという顕微鏡なら存在するが、実はこれは半分詐欺みたいなもので、この顕微鏡には量子力学的に原子から発されるとされている電流を検出する針が付いているのだが、この針先のサイズが、なんと原子のサイズになっているというだけである。これは原子の実在の証拠としては使えまい。

さて原子論はやはり古代ギリシアに端を発する。これも地球球体説と同じである。提唱者の代表はデモクリトス。ちなみにアリストテレスは原子論を支持せず、この世界は連続体であるとした。原子論は真空の存在がワンセットであって、アリストテレスはこれを良しとしなかったということらしい。結局は1643年、真空が存在することがトリチェリの大気圧の実験によって実証されたことで原子論はルネサンス以降の近代科学として勢いづいてゆくと見れるかもしれない。さらに原子論は、少なくとも古代ギリシアでは、思想的には神の否定ともワンセットである。この世界には真空と原子しか存在しないとするのが原子論であるからだ。しかし「神もまた原子で出来ている」と考えた人物もいたようで、ともあれ原子論は神の概念とも関わる歴史を含んでいる。

さて現代での科学関連の一般図書では、「物質が原子から成り立っていることはもはや誰でも知っていることだが」とか「原子の存在は今や疑う余地のないところではあるが」などの前置きや断りをしばしば見ることができる。これもまた地球球体説と同じなのであるが、原子論もまた、その実在を前提にしないとそこから先の話を一切すすめられないので仕方がない。とはいえ、科学の世界ではアインシュタイン以降、原子の実在はその論理整合性のために、"間接的に"証明されている、と言える状態ではあるようだ。これもまた地球球体説と同じであるが、それが間接的なものであれ、証明されたと言えるようになって以降の歴史は意外と浅い。これまた地球球体説と同じでいいかげんうんざりしてくる。

しかし「原子がない」ということを言えない、という点で地球球体説とは大きく違ってくる。現行科学の宇宙論の間違いを指摘することは、少なくとも対象物を観察できるために原子論と比べて遥かに容易であるが、物質をどこまでも細かく割っていったところがどのようになっているか、というのを光学的に観察することに限度があるゆえに、原子論への懐疑はどこまでいっても懐疑でしかない。もしかするとアリストテレスの言ったように、この世界はどこまでも連続体である、とだけ言って終えて良いのかもしれないし、あるいはトリチェリの実験による「真空の実在」の周辺を、もう一度じっくり洗い直してみてもいいのかもしれない。とはいえ、もし仮に原子論が間違いであることがはっきりとわかり、やはりドミノ倒し的に次から次へと嘘を見出したとしても、もう僕はそれほど驚きもしないだろう。

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