記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。

「罪と罰」の感想

ドストエフスキー著「罪と罰」を読んだため感想を残す
読んだのは工藤精一郎さんによる日本語翻訳だ

筆者は今大学4年だが、もともとは高校2年のときに一度読んでいたので罪と罰を読んだのは2度目だ。
高校生のときは感想をネットにアップロードするという文化は私にはなかったので、改めて感想を書き記す。

本を読んだ動機

なぜ高校2年のときにこの本を買ったのかといえば、ただ世界で広く知られている名著というものに触れてみたかったからだ。
ただ最初のころは慣れない言い回しや把握できない物語の展開にひどく退屈していた。

そのため高校生の私にとって、この本は「読んでいたら眠れる本」だった
おおよそ 30 分読んでいれば猛烈な睡魔に襲われてぐっすり眠ることができた。
高校生のころはこれがほとんど終盤まで続いた。

今思えば、毎日4ページでもいいから読み進めていた自分を少しは褒めてやってもよいのかもしれない。
(前編後編合わせて 1200 ページほど)

あのころはただただ読み進めるのに必死で、味わうということはなかなかできていなかったが、大学4年になって大学の部活の代表の任から解放されることになり少し時間ができたため、改めて罪と罰を読もうという気になった。

展開を知った上で読むと、それはそれは面白かった。
この登場人物がどんな役割を果たしているか、ドストエフスキーが何を伝えたくてこの本を書いたのか考えながら読むと、ひどく本に没中した。

罪と罰の紹介(ネタバレなし)

私は本書の核となる主人公の思想を皆さんにも問いてみたい。

もしケプラーやニュートンの発見が、何らかの事情のために障害として立ちふさがった数十人、数百人の犠牲にする以外に人間社会に明らかにされることがなかったなら、ケプラーやニュートンはそれらの人間を排除する権利があるのではないだろうか。
つまりそれらの人間を排除することを自分の良心に許してよいのではないだろうか。

リュクルゴス、ソロン、マホメット、ナポレオンは新しい法律を策定した人類の恩人である。
だがしかし、改革のために血を流した犯罪者だ。

つまり世の中には犯罪を犯す権利があるものがいるのではないか。
みなさんはどう感じるだろうか。

例えばあなたの目の前に詐欺師グループのメンバーがいて、そのメンバーはお年寄りや子供を騙し人の生き血を吸い尽くして生きているとする。
もしその詐欺師を殺し、それで得たお金によって多くの人を幸せにできるとすれば、あなたはその詐欺師を殺すだろうか?

主人公は一部の人間は犯罪を犯す権利があると信じ、不運が積み重なってしまったために起こした事件を中心に物語は進む。

詳しい感想はあとに記す。
ここから先はネタバレが詰まっているため未読の方はブラウザバックを推奨する。

罪と罰が伝えたいこととは

罪と罰が伝えたいこととは何だろうか。
それはきっとニヒリズム(理性に支配された生き方)の否定と、人間本来の感情の重要さだろう。

ラスコーリニコフは自分の信条「世の中には犯罪を犯す権利があるものがいる」のもと行動を起こすが、ひどく罪の意識に苦しむ。

そしてキリスト教徒の自己犠牲の化身とも呼ぶべきソーニャと出会い、対決するものの、ラスコーリニコフはソーニャに屈する。

まとめるとドストエフスキーがこの本で書きたかったことは理性の敗北だったのだろう。
ドストエフスキーは神がいないニヒリズムは破滅につながることを示唆しているのだ。

筆者の感想

おおまかに全体を追ったので、ここからは筆者の率直な感想を述べる。

ロシア語の愛称わからん問題

これは高校2年のときに強く思ったことなのだが、ロシア語の愛称がさっぱりわからなかった。
何も前提知識がない状態で、急にソーニャとラスコーリニコフが対談しているなか急にソーネチカが出てきて、筆者はなにか読み落としたのかと、何度もページを往復していた。

ソーニャとソーネチカくらいならあだ名だとわかる方もいるかもしれない。
だがラスコーリニコフの母(プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナ・ラスコーリニコワ)がラスコーリニコフへの手紙の中で急に「ロージャ」と出てきたら、流石に困惑するのではないか。
もちろんラスコーリニコフの本名(ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ)が明かされる前である。

私は最初に読んだときに思わず 3 人いると思っていた。
そのためまったく展開を読み取れず「??」で読み進めていた。

何度読んでもソーネチカとロージャが誰なのかわからなかった当時高校生の私はひどく悩んでいた。
だが青天の霹靂のごとく私は「リトルバスターズ」で「能美クドリャフカ」が母親によって「クーニャ」と呼ばれていたことを思い出した。
そのときは電撃が走ったことを5年ごしながら覚えている。
ようやく私は「ーニャ」が愛称であることに気づいたのだ。

ロシア文学を読むときはこのことを念頭に入れておく必要がある。
逆にロシア文学初心者にはこれをつよく念押しする必要があるだろう。

個人的に好きなシーン

  • ラスコーリニコフがソーニャの膝にすがり、2人の間に愛が芽生え、新生活を期待するシーン

  • ルージンがソーニャを陥れようとしてる中ラスコーリニコフがルージンを睨みつけているシーン

  • ラスコーリニコフがはじめてポルフィーリィと会ったとき、ポルフィーリィの罠を見抜いて切り抜け、その罠をラズミーヒンに解説するシーン

特にラストシーンがお気に入りである。
2人が涙を浮かべながら黙って抱き合い、無限の愛を確信し、生まれ変わって新しい世界へと旅立つ 2 人を描いていた。
ここではラスコーリニコフの改心と、ソーニャがイエスのように復活したシーンであり、2 人の物語はここで決着したのだ。

セリフ長すぎ問題

とにかく1つ1つのセリフが長い。
ちょっと思想を語り出すと容易く 1 ページが 1 つのカギカッコで囲われる。
特にひどいのがポルフィーリィ vs ラスコーリニコフでポルフィーリィの熱が入りだすと 4 ~ 5 ページほどが1つのカギカッコだけに包まれる。

ここまで長いと要旨を掴むのが難しい。
初心者の私はポルフィーリィ vs ラスコーリニコフを味わうのになかなか苦労した。

ラスコーリニコフは罪の意識から逃れられない

これはドストエフスキーの登場人物に対する意地悪だと思うが、作中では決してラスコーリニコフを安心させないという意図があるように感じた。

例えばポルフィーリィ(警察)と戦ってなんとか逃げ切って安心したかと思いきや、そのあとに謎の人物に「人殺し!」と呼ばれ本当はバレているのかとして震える夜を過ごした。

またポルフィーリィがただ痛めつけるためだけにラスコーリニコフを泳がせてるのかと思いきや、ただ単に物証がなくて逮捕できないことがわかり、そして安心できた、と思いきやソーニャに罪の告白をしたときに別の人物(スヴィドリガイロフ)に聞かれてしまい、もしスヴィドリガイロフが警察に告発してしまえば一発でお縄にかかってしまうような絶対絶命の状況に陥ったりと、読んでいてハラハラする。

決してラスコーリニコフを罪の意識から逃さないという作者の意図を感じた。

ヒロイン出てくるのがかなり遅い

この物語のヒロインは間違いなくソーニャなのだが、全体の 3 分の 1 ほど進んだ先にようやくソーニャが姿を表す。
言及されるのが序盤も序盤であるため、やけにもったいぶった登場である。

私は現代の美少女コンテンツもそれなりに嗜むが、最近も作品は 1 ページめくればヒロインが出てくるようなものばかりなのでかなり驚愕した。

個人的にはソーニャが出てくるたびに
「ソーニャキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!」だったため楽しく読めた。

美少女もので出てきそうな妹ドゥーニャ

ドゥーニャというラスコーリニコフの妹がいるのだが、これがエロゲにありそうなほどできた妹だった。

気を悪くする方もいらっしゃると思うが我々の世俗的に馴染み深い単語で話すと、美人で教養があって芯が強くて心が清いブラコンの田舎娘だ。

特にラスコーリニコフの大学の費用を稼ぐために性格が悪い金持ちとの結婚を決意するのはブラコンすぎて現代の美少女コンテンツで主役張れそうなキャラクターだ。

読むのにかかった時間

30 ページ読むのに 1 時間ほどかかった記憶がある。(そもそも没中しすぎて計測はしなかったのだが)
全部で 1,200 ページほどあったため合計 40 時間ほどかかっただろうか。

登場人物の役割を推し量りながら味わって読んだため仕方ない気もする。

この時間の使い方ができるのが学生のよいところだ。

最後に

罪と罰を改めて読むと味のある作品であると強く認識をした。

ドストエフスキーは理性だけによる生き方が敗北することを示唆しているのだ。

これは愛を唄う小説だった。
私はとても気に入っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?