「深夜プラス1」表現集

パリは四月である。
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いきなり戦時中のコードネイムは何だったと聞かれたら急には思い出せないにちがいない。しかし、パリのカフェのスピーカーで放送されるとまた話は別である。首すじに銃口をつきつけられたような寒けが走った。
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客の大部分は女で太らないで年をとってしまったのと、年をとらないうちに太ってしまった連中の二種類がいた。
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女の微かにうかべていた笑みが凍りついた。
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依頼人の一人がブルターニュからリヒテンシュタインへ行きたい。ところが一方には行ってもらいたくない連中がいる。射ち合いもあり得る。送り届けてくれないか?
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「婦女暴行犯が法の目をくぐるのを手伝うのはあまり気が進まんな」
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「別な角度から考えると、婦女暴行などというのは、人をおとしいれるのに一番都合がいいんだな」
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「ガンマンは必要か?」
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「パリ以外にファッションはない。いいデザインはすべて盗作だ」
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「明日のうちに金を集めておくか、今夜のうちに自殺するように言っておいてくれ」
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「誤解しないでくれ、おれはパリを悪く言ってるんじゃない。彼らのデザインのすばらしさは魔術とも言えるくらいだ。しかしそこまで必要はないんだ。大方の顧客は上肉もハンバーグも見分けがつかないような連中なんだ。良いものを作るだけじゃ商売にならないんだよ」
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疲れた顔でもなかった。飢えた表情でもなく、やつれているというのでもない。地獄の底をのぞき見たことはないが、いずれはそういうことになるだろうと認めている顔である。
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「ところでこのさい一つだけはっきりしておこう。警察官は絶対に射たない」

「これは、これは、驚いたな。おれも同じことを言いかけたところだったんだ。オーケイ」
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もともと彼の意見をきくつもりはなかったのだ。ただ、銃に関して彼なりの意見があればそれでいい。自分の選んだ銃に命を懸ける人間にとっては、銃に関する評価の基本になるのはあくまで自分自身の信念であって、他人の意見の入る余地はない。みなそれぞれ独自の信念を持っている。
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「噂必ずしも真ならず、だからね」
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「もう一つ。きみとおれはお互いに役目がちがう。きみは彼をリヒテンシュタインへ送って行く役で、おれは彼が殺されないようにするのが任務だ。たいがいの場合同じことになるが、常に同じとは限らない。その点も心得ていてもらいたい」
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「報酬分めいっぱいに働かされそうだな」
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死体と同乗するということは、人の体温にそれぞれ異なった影響をおよぼすのかもしれない。
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私は静かな口調でたずねた。

「ハーヴェイ、禁酒してからどれくらいたった?」

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彼はフーッと溜め息をついた。諦めたようなながい息であった。

「どれくらいなんだ?」

「もう大丈夫なんだ。心配するな」

しない。なにも心配することはない。ただボディーガードが慢性アル中患者であるというだけのことだ。それだけだ。
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「どれくらいになるんだ?」厳しい口調できいた。

「48時間。だいたい。前にもやめたことがある。こんどだってやれる」

嘘のようだが、アル中にはそれができるのだ。48時間、1週間、あるいは何週間も。
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「いざという時に震えが始まるというわけか?」

「大丈夫だ。もう過ぎた。また飲み始めるまでは震えはでないよ」

いずれまた飲み始める、と平然と構えているのがショックだった。
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あと彼に望むことは、もう20時間しらふでいてもらいたい、ということだった。それから先は自分の知ったことではない。
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考え方によれば、彼がまた飲み始めると決めているのはありがたいといえる。連中は、こんご永久に飲まない、などと考えると、その飲めない時間の長さに堪えられなくて、アッという間に逆戻りするものなのだ。あと一日、というのは容易な目標だ。それまでにおかしくなるということはあるまい。
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彼にきいた。

「記憶喪失の経験はあるのか?」

笑い声のような音がした。

「最初の記憶喪失のことか? それが覚えていられるはずがないじゃないか?」

最初の記憶喪失、前夜何があったのかまったく覚えていない、という最初の経験が大きな一歩なのだ。その後は峠を越える。下る以外に道はない。
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射ち返すことはボディーガードの役目の一部にすぎない。第一は身をもって射撃の邪魔になることである。
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「相手を負かすことよりトラブルを避けることを考えてもらいたい」

「できる限り」

私は答えた。
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客が苦情を言わぬうちからあやまることはない。
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もちろん彼は彼なりにアルコールという問題を抱えてはいるが、それが表面にあらわらていない時は、意志の強い、冷静で緻密な頭脳の持主なのだ。
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こういうことはあるのだ。そうなった時は自分の運転が正しく安全である。しかし、それが長続きしない。その状態がなくなり、しかもそのこと自体に気がつかないでいる時ほど誤りを犯しやすく危険なことはない。
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夜明け前の一番ゆううつな一時間である。新しい一日を迎えるのに力が充実していないことを意識する時間だ。病人が夜の長さに飽きて、諦めて死んで行く時間である。腕利きのガンマンなら獲物を待ち伏せる時間でもある。
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「用心をしすぎているんじゃないかね、ミスタ・ケイン」

「しすぎか、しすぎでないか、どうしてわかるんですか? あなた自身が、我々がどこで、どんなトラブルに出っくわすか知らないのだ。だから私としてはあらゆる可能性に対処しなければならないのだ」
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私は深呼吸をして気持をしずめた。
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「だれだってミスはあるさ」

「おれの商売では許されぬことだ」
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優秀なボディーガードというのは、早射ちであること、あるいは正確に射てることが本領ではない。そんなことはつけたしにすぎない。本領というのは、いつ、いかなる場合でもちゅうちょすることなく人を殺せる心構えなのだ。
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ガンマンが、たとえ猫の如く敏捷でロビン・フッドの如く正確に射てても、殺すべきかどうか自分の良心とたたかっているようでは失業保険を貰ったほうがいい。いや、そこまでもたない公算が大きい。

さもなければ、酒に浸るようになる。
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「お巡りというのは、今おれたちがやっているように人が逃げ回ることは気にしない。当たり前だと思っている。その方がいいのだ。少なくとも警察あるいは法に対する畏怖心の表われだからだ。ところがだれかがお巡りを殺すとどうなる?その男は逃げないで立ち向かったことになる。畏怖の念をもっていなかった。ということは、その男は法を破るだけでなくて、法秩序を根本から破壊しようとしていることになる。警官が自分たちの職責と考えている法、秩序、文明社会の護持にたいして反抗しているーーつまり警察全体にたいして挑戦していることになる。」
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「でも...どういうことでそうなったの?」

「男が売春婦にするような質問だな」

彼は感情のない口調で言った。
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少し間をおいて女が言った。

「終点に行きつくまでに、あなたが危険を避けるのに飽き飽きしそうね」

私はうなづいた。

「たぶんね。しかし、実際の危険に飽き飽きすることもありうる」
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ずるっこい弁護士が電話で人との会話を聞かれるようなことをうっかりするわけがない。私に警察がきていることを知らせているのだ。
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珍しく顔に表情らしきものが現れていた。中世の甲にチョークで書いたような笑みであった。不調和であるし、いつまでも残る笑みではないが、笑みであることにはちがいはない。
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私はひそかに、彼を罠に陥れた相手は、ほかの才能もさることながらユーモアのセンスがある人間ではあるまいか、と考えた。
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私には少しずつ彼のことがわかってきた。彼の見せる表情、動作のかすかな変化はあくまで表面的なものであって、ひと皮はげばその下には大きな動揺があるということである。
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その時とつぜん頭にひらめいた。あの角張ったがっしりとした顔の下には痩せたスコットランド人のような伝道者が石造りの説教壇から地獄の苦を説き、一文の無駄もなくしてこそ救いがあるのだと絶叫している。
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午後は気の抜けたビールのような味気ない雰囲気であった。
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「こちらは常に判断が正しくなければならないのだ」

私は叩きつけるように言った。

「警察は一度だけ正しい判断をすれば事が足りる。それだけのことだ」
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「修理は問題外だ。ガレージに近寄ることも危険だし、村落を通過することもできない。車は弾痕だらけなんですよ。弾痕はだれが見ても弾痕に見えるから困るんだ」
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だれもが予想する逃走経路からできるだけ離れたかった。
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あまり気の進まない返事であったが、生れて初めて銃弾に見舞われた一時間後では無理もあるまい。他人が本気で自分を殺そうとしている、という経験は相当のショックであろう。
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先方のいうとおりにすることにした。手助けをしてくれる人を相手に議論するのは無礼だし、無意味でもある。相手がこのようなことに慣れ切っている人である場合はなおさらだ。
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耳にこたえた。考えたくなかったことなのだ。
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できるだけ気違いじみた調子でどなった。気違いだと思ったらほかの細かい点までは注意がまわらぬであろう。
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「ハロー、ルイ。ちっとも変わらないわね」

私は膝まで濡れ、上衣とシャツは松葉におおわれて、髪の半分はひたいに垂れ下がり、森じゅうの雑物が頭にくっついている。その上、手に大きなモービルをつかんでいた。

私はうなづいた。

「変わってなきゃいけないんだげどね」
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私はうんざりして首を振った。これから言うことは彼の気に入らぬはずだ。それよりも、こちらの真意が理解できないかもしれん。
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話をかえたかったが、春のファッションとか、最近だれが離婚したとか、なんであんなやつを当選させたんだ、と次々と話題を転じていける気のおけない雰囲気ではなかった。スープから香草入りのオムレットになったが、末期患者療養所の葬式の後の会食のような暗い雰囲気であった。
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「イギリス人というのは本来は謙虚な国民なのだ。常に正しいことを口にし実行しようとすることがたいへんな思い上がりであるのを、昔から充分に承知しているんだ。だからそのかわりに、正しいことを言っているという印象を人にあたえることに専念したんだよ。それがイギリスの上流階級やパブリック・スクール、はてはつい最近まで存在した大英帝国の物の考え方の基調になっているのだ」
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「原因がわかったわ、ルイ。モーリスがお友達のロヴェルさんに一杯差し上げたら、数杯召し上がったらしいの」

私は日差しの中にいながら、氷のような冷たさに包まれた。

「これですべての条件が整ったんだ、これで」
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普通の人間とちがったところはまったくなかった。ないのが当然なのだ。暗い部屋の中で酒をラッパ飲みしている姿を想像する理由はなかった。彼は短時間に大量に飲む必要はない。切れることなく、チビチビと飲んでいればいい。ただそれが、体が溶けてしまうまで続くのだ。
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「たいていの場合、人がなぜアル中になるかということは大して問題じゃないんだ。アルコール自体が原因なんだ。だから、やめなければならない強力な理由が必要になる。酒を飲む理由をなくしてやるだけでは充分じゃないのだ」
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自分が心にかけた唯一の女から、他の男と結婚したのは間違いだった、と言われるようなことはめったにない。それも、今からでも遅くないのだ、と訴えている。幸運な男でも、一生に一日しかないことであろう。その一日が、税金逃れの金持ちをリヒテンシュタインに運ばねばならぬ日なのだ。
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館の中から銃声が一発響いた。
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彼は大きく息を吸い込んだ。ガンマンというのは、自分は絶対に負けないと思い込んでいる。しかし、負けた、ということもはっきりわかるのだ。
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「きみは物のわかった野郎だよ。あるいは、単なる薄情野郎かもしれんな。人を理解するというのは、かなりひどい仕打ちなんだぞ」
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「すまないな、ケイン。仕事がすむまでもつと思ったんだが」

「きみはもったんだ。仕事が延びたんだよ」
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ルーレットの場合と同じである。人々はいろいろな賭け方をとなえる。が、ルーレットの回転盤はそんなことは知っちゃいない。私はジュネーブで越境すると決めた。私の狙ったルーレットの数字というわけだ。
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彼は爆撃された建物の跡から引きずり出された人間のようだった。フラフラッとよろめいて頭を振っていた。振るたびに頭が痛むようだった。ガンマンとしてはくたびれた子猫を相手にするのがやっとであろう。
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私は彼女が無事であることを見届けたかったが、そんなことをしていると彼女のやってくれたことが無駄になる。前進せねばならない。こういう場合のルールだ。
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ずいぶん年をとっている。男を見ていると年のことは考えないくらい年をとっている。細長い顔が干からびたお面のようにしぼんでいて、あごの下に皮膚が垂れ下がっていた。大きな鼻の下に真っ白い口ひげがあった。崩れかかった壁の割れ目についている枯れ草のようにポキッと折れそうなひげであった。枯れ葉をくっつけたような耳で、頭に置き忘れたような白髪が二、三条ついていた。湿気のない墓の中に六ヶ月ほど入っていたような顔である。目だけが生きていた。水滴のように透き通った青い目で、垂れ下がるまぶたを支えるのに体中のエネルギーの半分以上をつかっている感じである。
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再び沈黙が続いた。将軍が口を開いた。

「わしのような老人を脅迫しても時間の無駄だよ。もういくらも生命が残っているわけではない。明日にでも往生するかもしれん。死んでもともとだよ」

私はゆっくりうなづいた。

「命が惜しいのはだれでも同じだ。どんなに老い先が短くても命は命だからな」
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「最初に言ったろう、ケイン。こういうことになるかもしれないとな。意見が分かれるかもしれんと言ったのはこのことなんだよ」
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血を吐く思いであったろう。アル中が酒のせいを認めることはまずない、ましてやガンマンが自信がないと告白することはとうてい考えられない。彼はその両方とも認めたのだ。
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私は、その男のすぐ後から出て来た男に射たれた。
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立ち上がった。時間がかかった。血が流れた。小人に斧でわき腹を打たれながら摩天楼をよじ登る気持ちであった。やっとの思いで二本足で立つと、ドカッと壁によりかかった。


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ラストにガツンとやられますよ(^^)






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