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清濁など、知らなかった。[短純文]

 今を彩る新進気鋭の表現を携えたSFも、全米を泣かせたラブロマンスも、時代を超えて愛されてきたファンタジーも、すべてが目を滑る。
 どれもが素晴らしい、優れた作品であることに間違いはない。
自分自身の心が、鈍く、遅く、張り詰めてしまっているだけだと。
そう思ったのは、映画館のひとつ席を空けた隣に座っていた女性が、話題作の上映でぼろぼろと声を押し殺しながら涙を流していたからだった。
 その姿にわずかに衝撃を受けながら、上映が終わってから歩いて家に帰った。帰り道に寄った若者が集うコーヒースタンドで頼んだゲイシャの浅煎りコーヒーの味は、あまり、覚えてはいない。
 大人と世間的に呼ばれる年齢になる少し前くらいから、自分自身の行いが少しずつ、馬鹿馬鹿しく思えるようになってきた。熱く将来を語り合うことも、到底叶わない夢を思い描くことも。その全てに目を輝かせることが、時間の無駄だと感じるようになった。もっと時間を有意義に、現実的に、どうしたら食うに困らないか、考えるようになった。
実際、それはそれとして、食うには困らない生活を送れている。1人で住むには十分な住居、2週間はクリーニングに頼らなくてもいいスーツたち、週に何度か飲みに出かけても金に焦ることはない。快適で、潤沢な生活。
 その傍らで、部屋の隅には、ホコリをかぶったものたちがいた。
学生の時にバイト代を貯めて買ったコンポとスピーカー、大学からパクってきたプロジェクター、山積みの小説。
懐かしくなって手に取っても、あの頃の自分が抱いた、淡いワクワク感と、確かな、全能感。自分もきっと、いや、必ず。それは一切感じられなかった。それよりも、寂寥感が強く感じられた。
 
 虚しくなってから、それらには触れなかった。もう何年も前になるだろうか。大きすぎる夢を持っていた頃を思い出すと、無性に恥ずかしくなる。
なぜあんなことを、あの時こうしていれば、恥をかくことなんてなかったのに。くそ、嫌なことを思い出した。新しく買ったウィスキーでも飲もう、確かここに…あった。ロックグラスに大粒の氷を入れて、と、少し注ぎすぎたかな、まぁコレで終わりにしよう。やっぱり山崎の12年はそこそこうまいな、ロックで飲むのが1番好きだ。今日は月も…別に出ちゃいないか。
月と言えば、あの時の月、1番綺麗だったな。

 12年前、彼は大学3年生の夏を迎えていた。
サークルの先輩は、皆、夏休み後半にある大型の小説コンペへと向けてせっせと万年筆を滑らせて文章を書いていた。彼はというと、もはやそんなことは無駄だと思って、来年度卒業生向けのインターンやら何やらに汗水をたらしていた。不動産会社では実際に営業職の先輩に同行したり、広告代理店では社内の企画コンペに向けて同じインターン生と企画会議をしたりしていた。
 「ヒロトくんは、もう書かへんのん」
そう言われたのは、インターンも終盤に差し掛かった、夏休みの終わり。
同じサークルの同級生であるアヤコからの疑問だった。
 「……ああ、書かへんよ」
 「どうして」
 夏の終わりに、先輩たちが、オレたちの代の最後の宴だと呼び立てられた晩、インターン帰りにスーツのままで行った居酒屋で、サークルの面々からやれ社会人気取りか、常識人ぶりやがってと揶揄され、それが面倒くさくなって出てきたのに、と、気だるく感じた。
 「せやかて、あんなん、学生のうちのお遊びやろ、皆、卒業したら結局筆折るんや、せやったら、早いこと就職に有利になるようにして、将来見据えた方が自分のためやろ」
どうせあの先輩らも結局、社会人になりやがるクセに。
 「ふうん、そぉかぁ」
 「なんや、なんか間違えてるか」
首を横に振って、アヤコはうつむきがちにぽそぽそと喋る。
 「あ?なんて」
 「正解やと思うで、痛快なくらい正論や」
 「せやろ、アヤコも行ってんのやろ、インターンとか」
 「そやけど、つまらんわ」
 「つまらん?」
 「そう、つまらん、全部」
 「せやけど仕事なんかみんなつまらんもんやろ、つまらんのんが何年かしたらおもろなってくるもんちゃうか」
 「それがつまらんのよ」
 「何が言いたいねん」
 「言うたわよ、全部つまらん、働くってそんな見え透いてしまうもんなん?なんか、これで60まで働けって、クソみたいにつまらんことずっとやり続けて死ぬ直前まで生きろ言われてるようなもんやがな」
 「またそんな極端な……」
見上げた空にある月は、満月でも何でもない月だった。
少しだけ右側が欠けていた、それでも1番綺麗な月だった。隣で極論ばかり言う彼女が、輝いて見えた。
 心なしか、胸がすっとしたような、そんな気がした。

カラン、グラスに入れた大粒の氷はがずいぶん溶けていた。
それに気づいて、ウィスキーと混じり合った濁った水をグラスを煽った。
何を今さら、と、少し自分をあざ笑って見せた。

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