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つよいことば[短純文]

「死にたくなったことはありますか」
目の前に座る白衣を着て眼鏡をかけた、あまり身なりに気を遣っていないような素朴な女が、パソコンでカタカタとカルテのようなものを取りながら、
目もくれず機械的に話す。
「え?」
身じろぎして、息を漏らすようにした。
そうして息を吐き出さずにはいられなかったのかもしれない
女は手を止めて、今度は小バエのように飛び回る僕の黒目を見定めて、鈍重に口を動かす。
「今まで生きてきて死にたいと思ったことはありますか?」
問い詰められているわけではない、彼女なりの優しさだ。
そんなことはわかっている。冷や汗が耳裏を泳ぐ。焦点が定まらない。
耳がキンとする。暑い。
「いや……たぶん……無いとおもいます」
先ほどまでいかに自分が寝られないか、どれだけストレスを抱えているかを、さも自慢げに語っていた口は瞬く間に乾ききってしまった。
「はっきりとはしないって感じでしょうか」
女は、よりはっきりと僕自身から出される明確な答えを求めている。
僕の心を少しでも正確に覗こうと、前のめりな姿勢を見せてくれている。
「はぁ……いや……まぁその……そう……ですね、そんな感じです……」
「わかりました」
女は、またパソコンに向き合って真剣な眼差しで僕の心についてをまとめている。
脱力したように肩の力が抜けて、逃れられたような気分になった。耳裏の冷ややかな感触は、まだ続いていた。
診察が終わって待合室で待っている間、鼓膜に心音が響き続けていた。
患者を気遣って調整されている快適な空調が、背筋をゾッとするほど冷たくさせる。
「片瀬さーん」
手の中に冷たさを覚えたまま、浅く座った、合成皮革でつぎはぎされたソファから足早に立ち去った。

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