処女のまま死ぬことについて

葵遼太『処女のまま死ぬやつなんていない、みんな世の中にやられちまうからな』を読んだ。

私は、ほんとうは試験勉強をしなくてはならない身の上であるが、まったく身が入らず、だいたい3か月くらいさぼりちらかしたので、試験はうからないだろう。

本でも読むかと思った。久しぶりに本屋にいって、まったく純粋に自分の楽しみのために本を買い求めることにした。そういう本の買い方をしたのは多分一年ぶりくらいで、前回は『その姿の消し方』を買ったと思う。その前は『スティルライフ』だった。(でも『スティルライフ』は、ちょっと個人的な課題図書だったからな…。)

現代の日本でかかれたなるべくちゃらついた(?)ものが読みたかった。で、ギターを抱いて寝そべる少女のイラストレイションが淡い色彩で描かれた、題字の長い、ダイナミックなレイアウトの『処女のまま…』を手に取った。

悪くない標語だった。それに添えられた英文も興味を引いた。"Nobody dies a virgin, life fuxxs us all"(伏字は筆者)。へえそういう文型があるんですね。nobodyの問題かな? 知性を感じるじゃん。と思った。プロローグを読むと、うらわかい高校生のカップルの初夜(の朝)についての描写からはじまっていた。帯には、「誰もみたことがないような、純情で無垢な献身によって、ひとりの少年が再生する物語です。しかしその本質は「ベッドの上の彼女の戦い」を想像することなのだと思います。」という推薦文が書かれていた。

で、僕はまったく勘違いをしたのだが、太宰の『満願』みたいなテイストの作品なのかな? と思ったのだった。心に傷を負った少年を救うために、恋人の女の子が、ほらなに、頑張るっていう…。そういう性のすがすがしい側面を描いた作品なのかなと想像したのだった。

僕はどうも、恋愛や性について斜に見るくせが抜けきらないところがあり、いわゆるありきたりな、家庭的な性愛について「けっ!」とおもってしまうところがあるのだが、いい加減改めなくては大人になれまいと考えていたところ、この作品のなかにかかれているらしい「ベッドの上の彼女の戦い」が、あれ、もしかして僕を救っちゃうのかな? と思ったので(あとイラストや題字の雰囲気がよかったので)これを買い求めることにした。

が、これ単体を買うのはすこし恥ずかしかったので、〈今この時よむべき本!〉売りされていたカミュの『ペスト』も併せて購入した。僕は『ペスト』が平売りされているのをみて、さきの地震のとき『チリの地震』が同じように売られていたのを思い出した。

これからは、本書のスポイラーをふくむから、純潔を守りたいひとはここで止まるべきである。

まず第一に、〈処女のまま死ぬやつなんていない、みんな世の中にやられちまうからな〉は、ニルヴァーナのカート・コバーンの残した言葉であった。じゃあカート・コバーンじゃん!(?)と僕は胸のうちでやにわ総立ちになったが、やはり面白いことを言っているには変わりないから、まあかまわないだろう。

第二に、この話は僕の想像していたように、心傷ついた男の子がうつくしい女の子の、あれやこれやがなんかして心がいい感じにあれしていくという感じの物語ではなかった。プロローグは、初めての夜は最高だったけど、私はもうすぐ死んでしまうんだ、という独白でできているので、だいたいの作品の本当の方向性はそこでつかめる。その後一章で、ギャルの女の子と無口な女の子が出てくるので、なるほどどっちかとこれからいい感じになってプロローグに繋がっていくんだなと考えた――つまりプロローグを、時系列の入れ替わった先駆的なものだととらえていたのだが、全然そんなことはなくて、それが少し新鮮だった。〈死んじゃう〉という結果を見せてから、愛し合うまでの過程を書いて、「でもこの二人、プロローグに書いてあったけど死別しちゃうんだよね」と我々を悲しがらせるつくりの物語、ほら、たくさんありますから、――でもそうではなくて、ので、この〈裏切り〉はなかなかわくわくした。

良いと思ったところと悪いと思ったところがあるが、悪いと思ったところから挙げたい。

まず、特別真新しいところがあるような作品、というわけではない。若いカップルの片方が、病で命を落とす。衰弱していく恋人との別れの日々。死。新しい友人と再生。主人公は、死んだ恋人と組んでいたバンドで作った曲を、新しい友人とのバンドで演奏する。

人が死ぬことは悲しいことであり、悲しいことを悲しいこととして書けば、それは悲しい。が、文学の本質は、そうした〈当たり前〉のことから逸脱していくことにあるのではなかったか…。

君、君みたいなひねくれものは、この作品の商業的レンジに含まれてないんだよ。

はい。

が、本当に、なにか目新しい要素があるわけではない。それはこの作品の特徴のひとつであると思う。登場人物や出来事は、いちいち〈どこかで見たことのあるような〉ものばかりだ。ギャル(オタクにやさしい)、オタク(ギャルのよさに気づく)、心に傷を負った根暗(再生する)、無口(実は確固たる意志を持っている)など。ほかにも、無理解な教師はめためた生徒たちをいじめ、妨害し、はては強権を振りかざして学園祭における主人公たちの演奏を中止しようとする。そこに一見軽薄に思われていたクラスの人気者(『異質』な主人公たちとは対をなす存在)が庇ってくれて演奏ができるようになったり…。

世に言われるエンターテイメントというのはもうだいぶネタが上がっており、その本質は〈発見〉にある。真犯人は別にいたとか、この出来事の本当の原因はこうだとか、悪い人間だと思っていたら実は良いやつだったとか…。いやしくも現代日本で文を売ろうという考えをもつなら、気の利いた〈どんでん返し〉のふたつみっつ仕込んでおかなくては、ねえ、マナー違反ですよ。話題の二、三も用意しないでナイト・パーティに行くビジネスマン、いますか? いないでしょう。

そうですか?

悪い、という前置きで書き始めはしたが、目新しいところがない、ということは、別にそのまま悪いことではない。実際、この作品には独特の空気感があり、それには上に書いた〈ありきたりな感じ〉も多分関係している。

多少露悪的にかっこよく書けば、喪の作業の不完全な感じと、〈ありきたりなもの〉につきまとうリアリティのなさは、調和し連動している。作中にも書かれるが、どんなに悲劇的に恋人が死んでも(まさに今死ぬ、という最後の四日間においても)、腹は減るし、トイレにはいくし、性欲は続く。人間は本当の喪に服すことはできない。同じように、世界は本当にリアルなものとして立ち現れてくることはない。すべては見知ったものである。生活は続く。どこにもあの人の不在の痕跡はない。(それはありえないことなのに。)

クリシェ的なものにつきまとうリアリティのなさは、でも、僕の経験に起因する個人的なものかもしれない。まず僕は若いうちに恋人と死別したことはないし…オタクにやさしいギャルどころかそもそもギャルに知り合いはいないし…。村上春樹は、よく男に都合のいいように女が表れてリアリティがないといわれる。が、たぶん都合のいいように女が表れてくる男はこの世界に実在しており、そのひとにとっては、村上春樹はあるある小説として、たぶん読まれる。議論されるべきは個別の経験について超越的なリアリティである。村上春樹の〈都合のいい女たち〉には超越的リアリティがないんだよな~と批判されるなら、それはひとつの考察の場を開き、ひょっとするとたぶんもうそういう意味で言われている。

超越的リアリティこそ文学の仕事である。では本書には?

ひとつには、先述の喪の気分における〈ありきたりな感じ〉の不完全性があげられる。僕は、この本は、その気分をとらえていると思う。死は特別なもののはずである。なぜなら死んだ女が特別な女だからである。私にとって、私にだけそうであるような仕方で。――

ふたつめに、死ぬ女のした仕事について、僕は超越的リアリティを、少なくなく感じる。死ぬ女は何をするか? 恋人のために手紙を書くのである。めっちゃ書く。100通くらい書く。で、共通の友人にそれを預ける。主人公の様子に従って、適切な手紙を選び、それを渡してくれという言付けとともに。つまり、2週間後に元気になっていたらこの手紙、まだ元気じゃなかったらこの手紙、とか、4月から学校にいけていたらこの手紙、不登校だったらこの手紙、という風に。ルート分岐があって、そのすべてにおいて主人公に適切なアドバイスをするために、無駄になるような手紙も網羅的に全部書いておく。しかし渡されるのはその一部である。主人公は、時間指定で配達される(と偽られている)亡き恋人からの手紙がいちいち的を得ているので、あの人は予言者だったのかと思う。

もう死ぬという、体力も気力も限界に近づいていく女に、100通の手紙を書く余力があるだろうか? 僕は、そう思わない。あまりリアリティがないと思う。

しかし、主人公はこのことについて、252-253頁で洞察している。ほんらい、ここに引用したいところだが、この本は出たばかりの祝福されるべきものであるから、無粋になりかねないことは控えたいと思う。代わりに僕が手前勝手に要約するが、彼が考えるのは、死ぬ女は自分が死ぬことを受け入れられなかったのである。で、なるべく恋人の前では気丈に振る舞っていた。そして、身体の痛みのために、ごまかし続けることのできなくなった最後の四日間には、恋人を退け、家族と過ごした。つまり自分は女にとって家族ではなく、ただの恋人だった。このことを主人公は多少恨みがましい語調で回想する。私はそれほど(死に際してそばにいてほしいと思われるほど)愛されていない、とか、私はあの人の愛する人の唯一ではなかった、あの人は他にも愛するひとがいた、とかそういった理由で。

が、死ぬ女にとって、死を退けようとすること、最後の瞬間をなるべく延期しようとする(という極めて恋人らしい身振り)ことの、実質は結局なんだったかというと、恋人のために手紙を100通書いて、彼の喪の作業を代理することだった。自分が死んだ後について書くことで、自分の死を忘れようとすること。あの人の悲しみについて書くことで自分の悲しみから目をそらすこと。他者の喪の作業を代理することに自己の喪の作業を仮託すること。僕はこのことに、ある種の超越的なリアリティを感じる。人にとって死とは、きっとそんな風なものだろうと思う。死の後について考えることで、死について考えることをやめる――(死の後は、死が前提になっているはずなのに)

100通に込められている死ぬ女の愛は、主人公(たちの未来)に降り注ぐ無償の愛ではない。だから救いがあるというべきだ。それを書くだけの長いあいだ、主人公の存在は、女を死から遠ざけていたからである。

僕には意外なことに(というか、少しうけいれがたいことに)、主人公が結成した新しいバンドは、学園祭での演奏をもって解散する。一応、ラストシーンで、同じ面々が大学に行ってもバンドをやっているということが(比喩でなく)夢見られるが、いま解散することは動かしがたいものであるようだ。それは途中までは、主人公が無理をしていたからだと書かれる。が、ラストシーンにおいて手紙のからくりが明かされ、彼の喪の作業が〈完了〉してもなお、解散という死は免れないものとして書かれる。

たぶんそれはこの作品における〈ロック〉であることと関係がある。ロックってほら、ジョンじゃなくて…いや、むしろジョンか? あの、わかるでしょう。あのロックです。僕は、この作品で「ロックでかっこいい」と書かれるたび、それ本当にロックでかっこいいのか? と思わないでもなかった。ただ、ニルヴァーナとかレッドツェッペリンなどと一緒に書かれるこの作品の〈ロック〉は、いまいち場になじめない若者たちによる、社会からの離脱/への反抗をあらわす旗印として用いられているのだろう。だから、回復した主人公たちにはもう〈ロック〉バンドはいらない…ので、彼らは解散するのだ。彼らは大人になるのである。(じゃあやっぱりロックじゃなくないか? いや、むしろロックなのか?)

あるいは…〈ロック〉をやるということは、カート・コバーンとかジミーペイジとかジョンレノンとか、そういうレジェンドたちと(ある意味で)ガチることである。そういう感覚が、主人公の友人である藤田(このひとは男でもよかったのではないか)にはあったと思うし、それは作品に共通の雰囲気で、だから彼らはバンドをやめるのかもしれない。文学を書くということは、カフカ、プルースト、ムージル、トマス・ピンチョン、ガルシア・マルケス他とガチることである。勝ち目はないでもない…そう考える人間だけが、書き続けるとすれば、本当に、書くのをやめることは自然なことである。

本来、主人公(ふくめほかさまざまな人物)の喪の作業という観点から、もっと緻密で総合的な分析がなされて当然の作品であるが…つまり、上に書いたようなことを言うなら、ということだが…ほら、僕は試験勉強もろくにできない出来損ないなので…(おかしいな、昔は優等生だったんだが)…そういった総合的な試みは別の機会、そして他の優れた読み手に期待を寄せたいと思う。

やはり本屋に並ぶ本は一定のクオリティを誇っており、読めば学ぶこと、感じることがあった。例えば死ぬ直前の人間はツイッター、YouTubeなどはやらないということである。メメントモリの教えを覚えているなら、人々はSNSに時間を浪費することなく、バケットリストの赤丸をなるべく増やすべくずんずん活動するべきである。処女のまま死ぬのも、悪くないことではあるにせよ。

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