プレキシ、謎めいたまま[4]

 でも本当に、転校生は、世界の終わりの鐘の音全てを背負っているみたいな顔をして新しい学校に……あるいは、古い学校に戻ってくるべきではない。彼女はそういう表情と、何かを訴えるような渇いた目差と、猫背と、歪んだ歩き方で自分の背負っている世界一般的な不幸(本当に十四歳というのは世界一般的な不幸を各々背負っているのだが)を僕達に示して、僕というファナティックなフォロワーをたった一人得た代わりに、三十人のアンチを抱えて徹底的な叩きに遭うことになった。それでそのあと十年を四分割してその都度、僕というストーカーに肉薄され、たぶんそのたびに初めて僕が彼女を否応なく好きになってしまったこの十四歳の初夏、彼女に起こっていた出来事の記憶を、思い出させられる[erinnern]ことになっただけでなく、せっかく逃げてきた故郷でも陰湿な虐めに遭うことになった。

 ヒルが虐められたのは、彼女が故郷に戻ってきたときあまりに暗い顔をしていたので、きっと都会で虐められて逃げてきたんだろうということになったのと、彼女が十字架の首飾りを学校にまでしてきて、それを教室のみんなの目の前で教師に無理矢理取り上げられるという生徒総立ちの一大スペクタクルがあったからだった。〈ということになった〉と僕が書いたのは本当に正確で、誰ひとりとしていわゆる確たる証拠など掴んでいなかったのだけれど、誰かが言い出したことが次々伝播して大体三次の伝達情報にまでなると、それは動かし難い、凝固するほど眩しい光のように明白な、公然の事実として扱われた。ただ僕の個人的な推測を言えば、たぶんそれは当たっているのだが、しかしそうしたくだらない噂話がヒルの上に結果したひどい嫌がらせを考えれば、ほんとうにあんなことは起こるべきではなかった……憲法が懸念するところの〈公権力による私刑〉の観念を、人は、子供が人をいじめられるようになった年ごろになったらすぐに、教えられるようになればよいのだけれど……さあ、わからない。ただ僕は、ヒルが虐められて悲しそうだったり辛そうだったりするのが、……、……。

 ヒルがどうして十字架のネックレスを学校にまでしてきたのかはわからない。それがいわゆるおしゃれだったのか、あるいは信仰のあらわれだったのかは、謎めいている。僕が見た限り、その十字架は、おしゃれというにはあまりに質素で、目立たない色で、ほとんどただの棒切れに見えたが、信仰の現れだとすればあまりに簡単に彼女は自分の十字架を手放した。彼女の首にかかっている細い鎖を、体育着の襟元から看破した元気の良い中年男性の教師は、まず二、三発一喝し(他に日本語を思いつかないから、こう書くけれど)、すぐさま自分の手でそのネックレスをこちらに明け渡すよう、配慮深く言い渡した。ヒルは少し考えていたが、言われた通りにした。現れた代物が十字架だったので、教師は憲法が信教の自由を保障しているとかつて学んだことを思い出しただろうが、二、三発一喝したあとの勢いがあった場合の特別の規定もないことだし、ほかに収まりどころも想像できなかったのだろう、それを受け取った。ヒルが学校にネックレスをしてきたということは瞬く間にわれわれの間に共有され、それが十字架だったという目敏い人の新しい情報がそれを磨き上げた結果、彼女は(彼女が本当の意味で信仰を持っていたかどうか、誰も知らないまま)多くの信徒が歴史の中で辿ってきたありきたりな迫害の道程を、自身も辿ることになった。

 僕はその光景を、ひとつの受難の光景として見ていた、……宗教的な意味に限らず、生徒にも生徒の考えや欲望や見込みがあり、教師の側にも方針と建前と妥協があるなかで、たまたま生じてしまった例えば交通事故のようなものに巻き込まれた気の毒な女の子だと思って見ていたし、僕の席の角度からだとヒルが自分のシャツに手を突っ込んで十字架を取り出す折彼女の裸の肩の上にかかったブルーのブラ紐が確認できた。最初僕は、彼女はただ軽薄な気持ちで(つまり、ファッションとして)十字架をつけてきたんだろうと考えていたけれど、この事件があったのち、ヒルは休み時間に堂々と自分の机で聖書を読み始めたので、まず僕は、彼女は本当は真面目だったんだと考えてから、やはり考え直して、これはみんなの前で十字架を取り上げた教師に対するプロテストで、お前のせいでこんなに虐められるようになったんだ、私は真面目な信仰を持っていて、そもそもお前には私から十字架を取り上げる資格なんてなかったんだと言わんがするためのパフォーマンスなのだろうと思った。

 でも本当のことは、……こんなことばかり繰り返してどうなるのか、わからないけれど、……僕にはわからない。少なくとも、この時期のあと彼女が宗教っ気をみせたことはなかったけれど、だから彼女に信仰がなかったとはいえない。もし、彼女に真の信仰心なんてなくて、すべて〈ファッション〉でやっていたところに、こういう受難があって、その後本当に(聖書を真剣に読み始めるほどに)教えのなかに救いを求めはじめたのなら、そうした行程のなかにまさに正しい祈りがあるのだと、言えなくもない気がしている。

[続く]

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