プレキシ、謎めいたまま[8]

 もちろん先生は〈発情〉なんてしていなくて、せっかく他所からお客さんがきたから、なにか楽しいことをして喜ばせたいと考えたのだろうし、自分があまり授業に横着しているところを見せて、次のクラスで他の先生に密告されたら迷惑だと考えたのかもしれない。あるいは本当に発情していた可能性もなくはない。したいという欲望と、見たいという欲望は、ひとつの本能からあらわれる別個に強力なふたつの衝動である。彼はその日どうしても十四、五の男女が、可能性の上で情交するのを見たかったのかもしれない、……ずっと見てみたかったのかもしれない。それはわからない。

 僕はこの文章を書き始めてから、もういったい何度〈わからない〉と書いただろう。正確な回数はわからない。かなりの数になっているだろうけれど、そんなものを数えることに意味はない、……僕はひとつの理解について書こうと思っていた。僕は、ヒルの死の十時間に僕が理解したことについて、書こうとしていた、……しかし、僕はその経験について書くことをこんなにも汚してしまっただけでなく、その理解についても、疑問符のつくものにしてしまった。僕は書けば書くほど、なにもわかっていないということを自覚し、露呈していくような気がする、……でも僕が書きたいのはそういうことではなく、僕が理解していなかったことや理解できなかったことのなかに、僕が理解すべきだったことなどなかったということなのだ。

 それは、ヒルはもうその言葉のなかに、僕に言うべきことをすべて言っておいてくれたということでもある。ヒルはなにも謎めいた暗号や図像を使って僕に時限式の罠をしかけておいたのではなかった。ヒルはずっと最初から最後まで、僕にある一つの感情を向けていた。僕を愛していたわけではなかった(ひょっとするとある時期に、そうした興味を持っていたことはあったかもしれないけれど)。ヒルは僕に、ただ、ずっとひとりでいて欲しかったのだと思う。

 僕とヒルの組は三番目に出発した。僕はわざとゆっくり歩いて、前の組との距離を開けようとした。ヒルもそれに合わせてくれていた。一つ目の角を曲がったとき、前の組はもう次の角を曲がってその次まで半分のところに来ていた。僕は意を決して彼女に質問しようとしていた、……。
「ニシノくんはさ、あれ、小説書いてるの?」
「え? ……そうだけど」
「なんかあれずっと書いてるんだって? 一年のころから」
「なんで知ってるの?」
 彼女は僕の質問には答えないで、続けた。「すごいよね、そんなに長く続くなんて。どんな話なの?」
「どんなって、……」明確なストーリーがあるわけでもなかったから、少し戸惑ったが、ありのまま話してしまうことにした。「九十歳の女の人が、記憶喪失になるんだけど、死ぬ前に急いで記憶を取り戻すか、あるいはどうせもうすぐ死んじゃうから記憶は放っておいてなにか別の新しいことをするか、悩むっていう話」
「なにそれ。変わってるね」と言ってヒルは笑った。「なんでそんなの書いてんの」
「なんでって、……別に理由なんかないけど。でも、もし自分がそうなったら、すごく困るんじゃないかと思って」
「変わってるね。だけど、おもしろそうな話だ」ヒルはにこにこしながら、僕の横を歩いて、話を続けた。「もうすぐ書き終わるの?」
「別に、いつでも終わろうと思えば終われる。だから、授業が終わるのに合わせて、終わりにしようと思ってるけど」
「ふうん。じゃあきっと、そのおばあさんは、……最後、死んじゃうんだね。迷ってる間に」

 台風が近づいていて、空も空気も特別な雰囲気を漂わせていた。空はいつもより深く作られているように見えて、そこにいくつもの分厚い雲が重なり、灰色の暗い光で満ちていた。湿った、静かな、重たい風が吹いていた。嵐は自分がそこに到来する前に、誰かみじろぎするのさえ嫌って、なにもかもうえから押さえつけてしまおうとしているようだった。僕はヒルが僕の書いている小説に興味を持っているらしいことが、たぶん、うれしかった。ヒルは次々に僕に質問した。僕はそれに答えたが、あとでヒルに自分の書いたものを読んで欲しかったから、核心に関わることは答えなかったり、あえて的外れなことを言ったりした。ヒルは、今読ませてくれるか、書き終わったら読ませてくれるか、どちらにしてくれるか僕に聞いた。
「どうしてそんなに気になるの?」
「面白そうだから。少なくとも、他のひとがやってることよりさ」
 最後の角を曲がったとき、僕は、書き終わったら最初にヒルに見せることを約束した。ヒルは、それをわすれないようにと僕に念押しして、口を閉じた。僕の番だった。僕は、ヒルが今でも祈っているのか、どうして聖書を読むのか、神様の存在を感じるのか聞こうとした。
「ヒル」
「なに?」と彼女が、僕の緊張した声音を聞いてすこし笑いながら言った。
「ヒル、僕は君が好きだ。僕の恋人になって欲しい」
 それから僕たちは、両方とも一言もしゃべらないまま校庭の最後の一辺を歩き終えて、しかるのち全員集合し、玄関で靴を履き替えて図書室に戻ってきた。僕たちはこの散歩を題材に一人ひとつ短歌を書くことになった。僕は台風の前の空の矛盾した雰囲気について書き、ヒルはだだっ広い校庭をたった八人きりで順々に歩いて行くことの葬列めいた憂鬱さについて書いた。教師は、四組目(つまり、僕とヒルの後)に歩いていたが、目の前の二人の間の歩くときの距離が絶妙につかずはなれずで趣深かったことについて歌った。普段はこういう人ではないのにどうしたんだろうと思った。

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