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藪を漕ぎ天命を知る

やぶ‐こぎ【×藪×漕ぎ】
[名](スル)登山などで、笹や低木の密生する藪をかき分けて進むこと。「藪漕ぎして谷に下りる」
デジタル大辞林

2021年も2月だというのに去年の経費を泣きながら入力している。PCのフォルダには終わった仕事のデータがぐちゃぐちゃに放り込まれていて、1つずつ中身を見ながら仕分けしないといけない。度が合っていない眼鏡は無残に歪み、眼球は常に乾いている。コロナを理由に健康診断を先送りしているのもよろしくないし、夏からちりちりと痛む背中のことも気にかかる。奥歯の具合も怪しくなってきた。ただし歯については粘っている間に白いCAD/CAM冠が保険適用になったらしく、これはラッキー。

「新宿で修理に出してくるね」と父から預かった腕時計が、ポーチの中で3分遅れの時を刻み続けている。

実家と自宅を行き来する生活ももう4年半になる。何もかもが仕掛中で宙ぶらりんで、その居心地の悪さすら麻痺しつつある。

一月往ぬる、二月逃げる、三月去る。ブログのメンテナンスまで手が届くのは一体いつのことだろう。

もしも私にゆったりとした手付かずの時間があるならば、まずPCのデータを整理して、カメラとiPhoneの写真をバックアップし、眼科と眼鏡屋に行き、古い銀行口座を解約し、切れてしまったパスポートを作り直し、お礼参りをして、眠っている母の職業用ミシンを動かして、メモに溜めてあるネタから文章を起こして、ここには書かない小さな野望を叶えるための下準備に取り掛かり、それから、それから…。

母の遺した分厚いノートは鉛筆で書かれたレストランや本の名前でいっぱいだ。ゆったりとした手付かずの時間を手に入れる前にあっけなく命が尽きてしまうかもしれない。

遠からず50歳を迎える私よ。「五十にして天命を知る」とは言うけれど、惑いに惑っているうちに次のステージが見えてきてしまったではないか。

老化は容赦ない。来年はもっと体力がなくなっているだろう。目はさらに霞むだろう。80歳を越えた父が今のようには歩けないかもしれない。私が自由に動ける時間が突然なくなってしまう可能性もある。

それでも明日の私、50歳の私、もっと先の私、いつだって私はアップデートされてあたらしくなっていく。

あたらしい私よ、今はただ、目の前に積まれたテキストに向かって手と頭を動かせ。断れることは断り、後でいいことは後回しにし、眠いときには眠り、会いたい人には会い、歩けるときには歩け、1日でも若いうちに。酒はもう少し控えるように。経費入力とデータ整理の山は少しずつ切り崩せばいい。健康診断だけはなんとかねじ込んでおきなさい。

立ち止まらず光の方に向かって進め。絡まった糸は不意にするすると解け、濁っていた水は澄み、それまで積み上げたあらゆることは1つにまとまり自然に転がり出すから。

心を整えて粛々と今すべきことに向かえ。不確かな未来に怯むことなく、人のペースに乗せられることなく、自らの秩序に則って一つずつ駒を進めよ。ルートは間違っていないがこの先も荒地が続くだろう。掻き分けながら進んでいかないとならない。しかしいつだってそうやってきたではないか。

背の高さほどもあるススキやアシを両手で掻き分けながら、風の匂いを手掛かりに進んでいく。藪が開けたその先には、白髪が増えたあたらしい私が手を差し伸べている。


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