三題噺(煙突 猫 美しい)

 私が住んでいるアパートの近所には野良猫が住み着いている。このアパートに住み始めた頃からずっと、夜中にか細い鳴き声が時折聞こえてくるし、実際、出がけや帰りがけに、彼女らの姿を見ることもそう珍しくなかった。
 彼女ら。そう、我が家の近所をうろついている猫は少なくとも二匹いた。一匹はいかにも野良という風情の、煤けたボサボサの毛並みをした灰色の猫。もう一匹は、それとは対照的に美しい毛並みをした、野良と思えぬ気品をたたえた三毛猫である。ほとんどの場合見かけるのは三毛の方で、ごくたまに夕方、帰りがけに灰色と遭遇することがあれば、おや珍しいと心中で軽く驚いてみたりするのだった。

 その日、繁華街に出て適当に映画でも見るつもりで家を出た私が見かけたのは、塀の上に座る三毛だった。いつもは人を寄せ付けない雰囲気を放ち、近づくとフイとどこかへ姿を消してしまう彼女だが、その日は何やらジッと斜め上を眺めたまま、私がすぐ横を通り過ぎようとしても全く頓着しないのだった。
 そんな彼女の様子に興味を惹かれて、彼女の見つめる方向に目をやってみたものの、そこにはいつもの光景が広がるばかりであった。雲を散らした青い空。電柱、電線、向かいに立ち並ぶ家家の屋根。そのうち一軒の窓からは熊のぬいぐるみが覗いている。少し遠くに煙突が一本。電線の上でピョコピョコと跳ね回っているスズメが数羽。
 この中で三毛の気を引くものといえば、まあスズメだろうか。彼女の様子に合点がいったわけでもなかったが、それ以上考えても答えが出そうにもなかったので、私は気を取り直して駅へ向かって歩き出した。道を折れて三毛が見えなくなるまで、何度か振り返って様子を見てみたが、彼女はやはり同じところを見つめたままだった。

 映画はあまり面白くなかった。面白くない映画は妙に体力を奪う。せっかく繁華街まで足を運んだのだから映画の後に服でも見ようという腹積りだったのだが、どうも気が乗らず、まだ夕方に差し掛かるかどうかといった時間ではあったが、さっさと帰ることにした。
 自宅の最寄り駅に着き、家へ向かう。交差点を折れて自宅前の道に差し掛かった私は、ギョッとして思わず足を止めた。
 塀の上に、三毛がいた。彼女は相変わらずどこかを見つめたままで、出がけに見た時から今に至るまで、微動だにしていないように見えた。
 さすがに尋常ではない。一体何がそこまで彼女の目を引きつけているのだろう。改めて彼女に近づいてみる。朝と変わらず、彼女は私のことなど意にも介していないようだった。再び彼女の視線の先を追ってみる。電柱、電線、向かいに立ち並ぶ家家の屋根。そのうち一軒の窓からは熊のぬいぐるみが覗いている。少し遠くに煙突が一本。空が橙色に染まりはじめていることと、電線の上にスズメがいないことを除けば、朝から変わった様子はどこにもなかった。
 視線を三毛に戻してみる。相変わらずどこかを見つめているその目は深い緑色をして、その瞳は細く縦に伸びている。耳はピンと立ち、スラリと伸びた背中から首へのラインは緻密な計算の元描き出されているかのようである。気品のある柔らかな毛並みは夕日をうけて金色に輝いている。ジッと見ているうちに、なんだか彼女はこの世のものではないような気すらしてくる。
 その時、彼女の鼻がピクリと動いた。それを見て、いつの間にか出来の良い美術品を眺めているような気になっていた私は一気に我に返った。慌てて三毛の視線の先へ目をやると、屋根の向こうに一本だけそびえ立った煙突から、白い煙が上がり始めているのだった。背後で何者かが動く気配がした。再び彼女の方を振り向くと、彼女はヒラリと塀から飛び降りるところで、そのまま滑るように着地するが早いか、物凄い勢いで煙突の方向へ走り出し、向かいの家々の間に姿を消したのだった。
 取り残された私はしばらくポカンと突っ立っていたが、間もなく我に返って慌てて煙突の建物に向けて走り始めた。彼女のように他人様の家の間をすり抜けていくわけにもいかず、煙突を目印にあまり馴染みのない道を行き当たりばったりに走り回り、何度か迷いながらも5分ほどで煙突の建物に着くことができた。
 息を切らしながら、チカチカする目で建物の入り口を見やる。
「◯◯市南斎場」
 そこは火葬場であった。一瞬の間を置いて、何のためにここに来たのかを思い出した私は、煙突を見上げた。夕日を受けて黒々とそびえる煙突。その先からは相変わらず白い煙が立ち昇っている。煙突に沿って頂上まで梯子が伸びている。その8合目あたりに、小さな影が見えた。私が見ている間にもその影はスルスルと梯子を登っていく。間も無く、影は梯子の一番上まで登り詰め、煙突の頂上にひらりと飛び移った。その身のこなしは、間違いなく猫のものであった。
 彼女は、煙の間にその姿を見え隠れさせながら、何度も煙突の縁から縁へ飛び移っていた。その手を一杯に広げて跳ね回る姿は、飛び立つ小鳥に掴みかかろうとしているようにも、楽しげに踊っているようにも見えた。
 その異様な光景は、何時間も続いた。いつの間にかすっかり周囲は真っ暗で、目を凝らさなければ猫の影を追うこともままならなかったが、たしかに小さな影は、煙突から煙が立ち昇る限り跳ね回り続けていたのである。
 しかし、それもついに終わる時が来た。煙は次第にその勢いを減じ、最後に細い白煙を一筋上げたかと思うとそれを最後にすっかり止んでしまった。悪い夢のような時間の終わりを感じた私は、ほんの一瞬、小さな影から視線を逸らしてしまった。すぐに自分の不注意に気付き、慌てて煙突の上に目を凝らしたが、もはや影は闇に溶け、見つけることなど到底不可能であった。
 
 数日後、私はいつも通り、仕事終わりに駅前のスーパーに寄った後、家への道を辿っていた。
 火葬場の件について、職場の親しい友人にも話してみたが、当然というべきかあまり真面目に取り合ってはもらえず、映画館でビールを頼んだか、など冗談めかした失礼な質問を受けただけだった。
 家の前の道路に差し掛かる。今日は珍しく灰色の猫が道沿いにうずくまっていた。
「なあ、君の友達は煙突で何をしてたの?」
 何の気なしに灰色の猫に声を掛けた。灰色は気怠そうにこちらに顔を向けた。その目は深い緑色をしていた。彼女は私の問いに答えることなく、ゆっくりと立ち上がり塀の上にヒラリと飛び乗るとさっさとどこかへ行ってしまった。
 彼女がいたところから、かすかに煤の臭いがした。

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