無世界転生

 人生は驚きに満ちている。
 父に抱かれて初めて見た海。初めて触れた雪の温度。遥か遠くにあったはずの25mプールの端に初めて手が届いた瞬間のざらざらした感触。親友の転校。仲の良い同級生に抱いた頭の痺れ。さほど真剣に打ち込んでいたわけでもない部活の引退試合であえなく敗退した瞬間に胸から込み上げた熱い思い。合格発表のボードに自分の番号を見つけた時の現実感のない数分間。自らの視野が広がっていく高揚感。プロポーズの前の緊張感。初めての経験はいつでも僕に衝撃をもたらし、僕の人生を彩ってきた。そして、25歳の今日。
 僕は、人生で初めての経験に、最大級の衝撃を受けた。
 訂正。正確な表現ではなかった。
 僕は、人生で初めて、最大級の衝撃を受ける経験をした。だ。
 駅に向かう途中、突然横から車がものすごい勢いでぶつかってきて、僕はなすすべなく跳ね飛ばされたのだ。視界がぐるりと一回転する間、これまでの出来事が次から次に浮かんでは消えて。
 そして、人生二度目の最大級の衝撃を脳天にもろに受け、僕の人生は終わったのだった。
 実にあっけないものである。

 目を覚ますと、奇妙な話だが何も見えなかった。僕は水中とも空中ともつかない空間をゆらゆらと漂っていた。うつ伏せなのか仰向けなのか横を向いているのか、はたまた立っているのか、全く判然としない。
 恐る恐る力を入れると、僕の指は拍子抜けするほどスムーズに動いた。腕をゆっくりと動かして辺りを探ってみる。少し開いた指の間を水とも空気ともつかない曖昧な感触が通り抜けていった。
 しばらくそうやって腕を動かしているうちに、その感触は段々と薄れていった。僕の周りに充満していた曖昧な感触の何かは、僕の手で掻き回されていくうちにいつしか一箇所に集まっていき、液体とも気体ともつかなかった何かから固体とも液体ともつかない何かに変化していた。
 相変わらず何も見えない。そのあともあたりを探り続けたが、その胡乱な物体以外のものに指先が触れる気配はなかった。これでは埒があかない。
「ライトとかないのかよ」
僕がそうぼやいた瞬間、あたりが急にまばゆいばかりの光に包まれた。
 それは結構なことなのだが、いかんせん明るすぎる。目が眩んで何も見えやしない。突然の強烈な光から逃れようと目を閉じてバタバタともがいていると、瞼の向こうで光が段々と弱まっていくのを感じた。恐る恐る目を開ける。もう強烈な光に目を刺されることはなくなっていた。
 人ごこちがついたところで、胡乱な物体に目を向ける。視覚でとらえたところで、それは胡乱な物体としか言いようがなかった。不定形で、儚げで、その表面は絶えずゆらゆらと揺らいでいた。
 結局僕は一体どこにいるのか。さっぱり見当がつかない。明かりがついたところで、周囲は相変わらず漠然としていて、果てがあるのかどうかもわからなかった。僕と、この目の前にある何かだけが確かな存在感を持ってこの空間にぽつねんと浮かんでいた。
 途方に暮れてしばらく漂っているうちに、僕はあることに気づいた。驚くことに、この空間においては、自分が頭に思い浮かべるだけで、自由自在に周囲の明るさを調整できるのだ。
 この場所の正体もここから脱出する方法も分からない以上、長期戦も覚悟せねばなるまい。そんな状況下において、生活リズムを整えることは重要だろう。そう思った僕は、何度か練習して明るさの調節が自由自在にできるようになったところで、脈拍1回を1秒ということにして、12時間は明るく、12時間は暗くなるように「設定」したのだった。
「よし」
 いまだに状況は飲み込めない。ここはどこなのか、この胡乱な物体は何なのか。車にはねられたはずの僕はなぜここにこうして生きているのか。
 だが、何にせよせっかく拾った命である。こんな訳の分からない場所で訳が分からないまま終わらせる気はなかった。
 早くもさっき決めたばかりの夜が近づいている。今日はここまでにして、ひとまず眠ろう。明日からはもっと徹底的にあたりを調査してやる。そんなことを考えながら目を閉じた。

 第一の日である。

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