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#理想のあざとば

 部活帰り。厚い雲で覆われた夕暮れの空が、冷たい雨を降らせた。
 薄暗い通学路を傘を差して駅へ向かう学生達がちらほらと見える。大学の正門を出た頃は小雨だったはずだが、雨脚は徐々に強まり、今は大きな雨粒が上着の肩を容赦なく叩いている。ろくに教科書の詰まってはいない軽い鞄を頭に乗せ、俺は駅へ向かい走り出した。

 黄色い傘を追い抜いた時、
「あれぇ〜、俺くんじゃない?」特徴のあるハスキーボイスに呼び止められた。
 足を止めて振り返ると、間髪入れずに開いた傘をこちらへ差し向け、手招きをする女の子。
「ほれほれ、入れてあげよう」傘を揺すり、笑みを浮かべながらそう言ったのは的場華鈴。A子の親友だ。
「さんきゅー! 助かった」俺が傘の下へ入ると、
「うわぁ~、全身びしょびしょじゃん。ちょっと待ってて」肩から下げた通学用バッグから、器用にタオルを取り出して俺によこす。
「いや、いらんて」そのまま返すが、
「風邪ひくでしょっ!」と、傘の柄を俺の手に押し付け、濡れた上着をタオルで拭き始めた。
「ちょ……、分かったから、自分でやるって」
 勢いに負けた俺はしぶしぶタオルを取り上げた。すると今度は、俺に預けた傘の持ち手をつかもうとする。
「入れてもらってんだから俺が持つよ」
「私の傘だもん、私が持つの!……じゃあ、一緒に持とう」彼女はにこやかな笑みを浮かべながら、持ち手の下方へ指を滑らせた。

 冷たい雨の降りしきる中、的場の笑顔で冴えない気分が和らいだ。セーターの袖から覗く細い指が触れ、体温がちょっとだけ上がった気がした。
「駅まで自転車じゃなかったの? 通学路でA子と仲良く追い抜いてくの見かけるし」
「今日はチャリ鍵忘れて、一限の必須科目遅刻寸前」俺がおどけて言うと、的場は白い歯を見せて笑う。
「文化祭で使う脚本の資料集めしてたらA子はさっさと帰っちまったし、そんでこの土砂降りだろ? 今日は本当についてない」
 傘の下から手のひらを出してみる。先程の勢いは収まったが止む気配も無い。

 水たまりを避けた拍子に、肩の下辺りで切り揃えられた的場の髪がさらさらと揺れた。夏の頃見かけた時は首元の涼しげなショートヘアだったのだが、少し伸びた髪がカーキ色のセーターの襟に掛かっている。
「もしかして伸ばしてる?」俺が指をさすと、ちょっとびっくりした様子で、
「えっ!? あ〜、えっと……髪?」と肩に掛かった髪の毛を後ろへ払い、照れたように聞く。
「どう思う?」
「前より大人っぽくなった気がする」
「そう?」少し頬を赤らめて嬉しそうに笑った。
「私も部長になったからには、今までと同じ気分じゃ駄目だと思ったんだよね。後輩に頼り無く見られたくないしさぁ。まずは落ち着いた髪型にしてみよう~って」
 的場は全国上位レベルのチアリーディング部の所属だ。他にダンスサークルを幾つか兼任し、ダンス技術はプロレベル。四年の引退した今、部長を務めているという話だった。

「俺くんの演劇部も帰りはこの時間なんだね。文化祭が近いと大変でしょ?『小道具と告知用ポスター任される雑用係はもう勘弁して欲しい』ってA子が嘆いてた」
「ウチの部からも正式にお願いしてる。イラ研もヘルプは容認。絵を描くのは大好きだから、何だかんだ文句言っても、手伝ってくれる優しくて可愛くて絵も超絶に上手い自慢の彼女なので」照れて中々言えない褒め言葉も、当人がいないと、さらっと言えてしまう。
「ポスターを描いて貰うだけじゃなくて、役者として芝居に出て欲しいんだよな。アイツ、声優並に声可愛いし、表情もコロコロ変えられて演技力もありそうじゃね?」
「うん、そだね……」
 さっきまで俺の顔を見ながら、にこにこと嬉しそうにしていた的場だったが、急にぷいっと横を向いた。A子については共通の話題のはずなのだが、なんだか気まずい雰囲気だ。

 話題を変えようと思考を巡らせていた矢先に、
「……って、どうして気がつかないの」そっぽを向いたまま的場は呟いた。
「えっ?」俺は思わず聞き返す。
「俺くんはどうして、……役者はやらないの?」一度言葉を飲み込んだ後、彼女は言い直す。
「あぁ芝居の話な。別にやりたいとは思わない」俺は即答する。
「脚本を読むのは好きだけど、人前で話をするのは苦手だからなぁ。演出なんて言ったらおこがましいけど、舞台で演じてる人を眺めてる方が気楽でいいわ。それに……」
 チアリーディング部の夏の大会をA子と応援に行った日、ステージ中央でパフォーマンスをする的場の、太陽の様な笑顔が浮かんでくる。
「全国大会で優勝なんてすげぇじゃん。そんな凄いトコのリーダー任されてるんだろ。それこそ、的場みたいに輝いてる人を応援する方が好きだな」

 そっぽを向いていた的場は、まるで怯えた小動物のようにびくっと肩を揺らして歩みを止めた。
「顧問の先生や部員達はみんな、私が部をまとめるのに賛成だって言ってくれたけど、本当は不安で仕方なかった」
 的場は俯いたまま、彼女らしからぬ弱々しい声を出す。
「大会で良い成績を取らなくちゃみんなの将来を壊してしまう。でも来年も優勝できるかなんて分からないじゃん。先輩の敷いたレールの上を進んでるだけじゃダメ。正解なのか分からない道を行くのは怖いけど、私が率先して暗闇に足を踏み出さなくちゃいけない」
 誰に言うとでもない呟きが、彼女の唇を歪ませて次から次へと漏れ出してくる。
 女子グループの中心にいて、ほんのたわいない話題にもいつも楽しそうに笑っている陽気な的場からは想像しがたい姿だった。

「こんなネガティブな私は"らしく"無いでしょ?『明るくて真面目な良い子ね』って、いつもみんなから言われてるからね。だけど、誰も私の本当の姿なんて見てない。私だって他の子の様に自由な事を言いたいし、好きな事をやりたい。こんな考えの自分がみんなを纏めていける訳ない」
 自身を軽蔑する言葉を重ねる度に語気が荒くなっていく。
「私はみんなに信頼されるような良い子じゃない。我慢ばかりしてるのはもう……」そう言い捨てて、的場は傘の柄から手を離した。
 抑えられなくなった感情から逃れるように、俺の傍から一歩離れ、降りしきる雨の中に身を晒す。
「俺くんはお日様ぽかぽか晴れの日が好きだよね。だけど、私はこんな雨の日が好き。このままずっとやまないで欲しい」
 彼女は雨雲に覆われた夜空を見上げた。雨の雫が頬を伝って流れていく。
 いつも溢れるような笑みで周りを和ませてくれる的場。真面目な性格と何事にも真剣に取り組む姿勢に皆から尊敬され、信頼されている的場。そんな彼女の、心の奥底にいるもう一人の女の子は、今にも責任感に押しつぶされそうになっていた。

「……俺の好きな天気、勝手に決めるなよ」一歩身を寄せて、的場の頭上へ傘をかざした。
「すげぇ頑張ってるなぁっていつも思うよ。傍から見てても、そのうち倒れるんじゃないかと心配になるくらい。……ほれ、お前こそ風邪ひくんじゃね?」
 俺は借りていたタオルを的場の頭へ乗せ、くしゃっと乱暴に髪の毛を撫でた。
「晴れてる日が好きって言ってたじゃん」俺の手を振り払って、タオルで顔を拭う。
「たまには今日みたいな雨の日があってもいいって事だよ」
 俺は的場の手を引いて歩き始めた。唐突に手を繋がれた的場は、驚いた様に顔を上げて俺を見た。目元と鼻が赤い。

 過程が大切だと幾ら言っても、勝敗があるものだから必然的に結果は求められる。結果の良し悪しで、その先の未来も大きく変わってくる。しかし、どれだけ身を削って努力を重ねても、辿り着けるかどうかは誰にも分からない。今すべき事をわざわざ言わなくとも、きっと彼女は既に気づいているだろう。努力して成功した嬉しさや楽しさも、上手く行かない辛さも悲しさも、それら全てを包み込んで、輝く舞台で素敵な笑顔を見せている。

 だから、たまには今日みたいな雨の日があっても良いと思う。そして、
「雨、止んだかな?」
 俺の言葉ではっとした的場は、繋いでいた手を慌てて振り払った。駅のロータリーへ続く交差点で信号待ちをする人達は、もう誰も傘を差していない。
「あー忘れてた。ここまで付き合わせちまったのか、悪い」
 学生寮住みの的場は、駅前まで来る必要は無い。
「わざわざ送ってあげてた事、今頃気がついたの?」
 的場は黄色い傘を器用に折り畳みながら言う。呆れた様な口調だが、顔には笑みが漏れて、何だかとても嬉しそうだ。
「的場のお陰で、どうやら風邪を引かずに済みそうだわ」他人事の様にとぼけて答える。
「じゃあ、ほら傘、貸してあげる」折り畳み傘を差し出す的場。
「いいよ、もう止んでるし」
「向こうの駅からも家まで歩くんでしょ。また降ってくるかもしれないじゃん」
 半ば強制的に手のひらへ握らされ、それを断る理由は思いつかなかった。的場は後輩の面倒見も良いのだろう。顧問や部員が的場をリーダーに推薦したのは理解できた。チアリーディング部に所属する部員達を羨ましく思う。

「今日は本当に助かった。ありがと」結局改札口まで見送られて、俺はお礼を言った。
「ううん、こちらこそ。俺くんと沢山話が出来て楽しかった!」嬉しそうに笑った後、
「さっき『雨の日が好き』って言っちゃったけど……」伸ばし始めた髪の先を無意識に触りながら、的場は真剣な顔をする。
「それは半分本当で半分は嘘。雨上がりには綺麗な虹が架かるでしょ。そんな天気が好き。だから私も俺くんとおんなじだよ」最後に満面の笑みを浮かべた。
「的場はその笑顔が一番可愛いな」
 余りに無防備な的場の様子に、照れながら俺の本音が溢れる。
「そーゆーのって、いつもA子に言ってるんでしょ」的場は拗ねた顔をして見せたかと思うと、悪戯っぽく笑って言った。
「傘には私のイニシャルが入ってるからね」

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