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世の中に絶対がないのなら…

「絶対」という言葉は、もはや本来の意味を失っていると言えるでしょう。

忠実に言葉のままに用いることの難しさと、言葉の不確実性に対する虚無感を抱かずにはいられません。

何か新しいことへの挑戦に躊躇する人に向けて「絶対ムリなんてことはない」と「絶対」の否定をしておきながら、恋愛などにおいて唯一無二の愛を語ることに違和感を感じる方がどのくらいいるのでしょうか?

「相手を信頼する」ことと「100%信じる」ことが、同義ではないことを瞬時に悟ることのできる冷静さを、愛する人との関係性において備えているでしょうか?

…と、こんなことを書いていますが、今回は恋愛の話ではありません(笑)。

「絶対」を便利に使い分けることに対して、個人的な見解を述べてみようと思います。

最後までお付き合いいただけると幸いです。

カトリック・教会・ステンドグラス・アーキテクチャ・荘厳な

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例えば「絶対に潰れない企業」は存在するでしょうか?

「絶対に大丈夫」という状況はあるでしょうか?

「絶対に裏切らない」関係性は成立するでしょうか?

このようなケースにおいては、絶対というものは”絶対に”存在しないと言い切ってしまっても、ある程度は納得できるのではないでしょうか?

なぜなら、これらの「絶対」は主観だからです。

神様でもない限り、主観が現実に具現することはないでしょう。

一方で、人は美徳に対して「絶対」を用いることに何の抵抗感も持たないケースがあります。

絶対的信頼、絶対的な愛、絶対的信仰心…。

これらも主観であるはずなのに、なぜ否定的な意見が少ないのでしょうか?

ガネーシャ・インド・信仰・石碑・彫刻・神

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ベストセラーである「サピエンス全史」を参照するならば、偶像崇拝主義が私たちの遺伝子に刷り込まれているからと言えるでしょう。

現代の人類が生き抜いてきたのは、集団において「絶対的存在」を偶像に担わせることで、個ではなく社会的集団としての機能を備えたからだと私は感じます。

ですから、穿った見解を述べるなら、美徳に絶対を宛がうのは、人間として何ら違和感のない感覚なのかもしれません。

…とは言え、現実には美徳ほど脆いものは無いとも思うのですが、それもまた私の主観であって絶対ではない意見です。

このように、一つの言葉について考えると、言葉の本質というのは、思った以上に移ろいゆくものなのではないかと思います。

本来の意味から乖離してもなお、言葉は存在しますが、そこに本質などないように感じるのです。

人間は、言葉に傷つき言葉に救われる生き物です。

ですが、言葉そのものを偶像崇拝するのではなく、月日とともに変化するのだと認識することで、私たちの精神も縛られることなく変化するものだと気づくことができれば、一部の言葉の神格化に違和感を抱き、現実にしっかりと足をつけて歩いていけるように思います。

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ということで、最後までお読みいただきありがとうございました。

今回は、面倒な言い回しが多く読みづらかったと思います。

もう少し頭の整理をしてから書き始めないと駄目ですね( ̄▽ ̄;)。

投稿は以上です。


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