エンターテイメントは「口説く男」、アートは「雰囲気のある女」

エンターテイメントとアートの違い

エンターテイメントの価値は客の評価に委ねられている。作品をつくり終えた時点では、まだその成功失敗は判断できない。男が必死に口説いても、相手が振り向かなければそれは失敗を意味する。だから、エンターテイメントには誘導が含まれる。客の感情を誘導する。それがバレバレなら冷めるが、もちろん成功するときもある。その度合いも客観的にはかれて、わかりやすく、ビジネスと相性がいい。

一方で、アートに失敗があるとすれば、それは対象をうまく表現できていない時だ。雰囲気のある女なのに嫌に派手な化粧をするみたいに、よくない。アートの場合、作り終えた時点で勝敗は決する。だから、その後で誰がどう文句をつけようと作品の価値には影響しないし、誰もが素通りしても特有の雰囲気があることは否定できない。たとえ芸術的に成功しても、すんなりと評価されないかもしれないし、どう評価すればいいか分からず、ずっと後で「よく見りゃすごい女だな」なんてことになるかもしれない。それは、冴えない男たちに噂されるくらい、女にはどうでもいいことなのだ。

芸術的な娯楽と大衆的な芸術

もちろん白か黒かはっきり分かれるわけではなく、ほとんどの二項対立がそうであるように、境界線は緩やかなグラデーションになっていると思う。芸術性に富んだ商業作品もあるし、エンターテイメント性のある芸術作品だってある。お金が動くところであればどうしても評価に引っ張られるだろうし、媚びを売る作品ばかりだと客が圧倒されることはなくなる。だが、どちらかに振り切れば同じくらいの傑作が生まれるのではないか。つまり完全なエンターテイメントと完璧なアートの制作過程は似たようなものにさえ感じる。他者(客)を徹底的に分析するのか、自己を深く探っていくのか。「誰でも落とせる男」と「どこの誰とも違う女」は同じくらいの力を持っているのだ。


もしあなたが芸術や文学を求めているのならギリシャ人の書いたものを読めばいい。真の芸術が生み出されるためには奴隷制度が必要不可欠だからだ。古代ギリシャ人がそうであったように、奴隷が畑を耕し、食事を作り、船を漕ぎ、そしてその間に市民は地中海の太陽の下で詩作に耽り、数学に取り組む。芸術とはそういったものだ。

(『風の歌を聴け』 村上春樹)


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