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静寂者ジャンヌ 24 違いは違いのままでいい…闘いのはじまり

ジャンヌは娘を連れて、家を飛び出した。
恩寵に誘われるままに、ジュネーヴを目指した。

ジュネーヴという目的地だけは、はっきりしていた。

でも、どうやって? 何をしに?

迷いながら、ヌーヴェル・カトリックという団体に参加することにした。プロテスタント信徒をカトリックに改宗させる団体だった。

さてさて・・・

1 あなたは馴染めないでしょう

ジャンヌは、パリからセーヌ川を船で遡った。途中、コルベイユに停泊した。その町の修道院には、アンゲランがいた。14年前にジャンヌを〈内なる道〉へと目覚めさせた、あの「良き聖職者」だ。(静寂者ジャンヌ 16 参照)

ジャンヌはヌーヴェル・カトリックに参加することを、アンゲランに報告した。

アンゲランは言った。

あなたは、ヌーヴェル・カトリックの活動に馴染めないでしょう・・・」

アンゲランは寡黙で、シャイなタイプだったらしい。なにしろ、ジャンヌと初対面の時に、すっかり固まってしまったぐらいだ。きっと、初対面の時に「神を探すのは、外側ではなく、あなたの内側です」とひとことだけ言ったように、その時も、ぼそりと言ったのだろう。

そしてアンゲランは、「自分たち〈内的キリスト者〉と、ヌーヴェル・カトリックとでは相入れる余地がない」・・・そう、断言したという。

〈内的キリスト者〉とは、〈内なる道〉を歩むキリスト者のことだ。このシリーズでの「静寂者」だ。(厳密には「キリスト教系静寂者」と言ったらいいだろうか。)

当時フランスでは、ルイ14世という絶対権力者の意向に乗じて、プロテスタント信徒を暴力的にカトリックに改宗させることが横行した。プロテスタント家庭の子どもを騙して誘拐し、事実上の監禁状態に置くケースも多かったとされる。そして、親元では味わえないような豪奢な生活に浸からせて洗脳するなど、あれやこれやの手口が使われたという。まさに人権蹂躙だ。ヌーヴェル・カトリックという団体も、その例外ではなかったようだ。(1)

ジャンヌやアンゲランたち静寂者は、こうした類の権力主義・差別主義・排他主義・狂信主義を嫌う。今で言う、ファシスト的、カルト的なものとは、まったく相容れない。ジャンヌの生涯を追うと、いかに彼女がそういったものを嫌ったか、よく分かる。
静寂者は、一人をベースに生きる。



アンゲランは、ジャンヌにこう忠告した。

「決して、あなたが〈内なる道〉を歩んでいる事を言わないように。もし知られたら迫害を受けるでしょう・・・」

2  壁しかなかった

ジャンヌの冒険は、はじめから迷走した。

当初、ジュネーヴ司教は、確かにジュネーヴにヌーヴェル・カトリックを開設する構想でいたようだが、最終的に宮廷からゴーサインが出なかった。おそらく政治的な裏交渉がうまくいかなかったのだろう。そのためジャンヌは、ジュネーヴ近くのフランス領にある、小さな山腹の町ジェックスに行くこととなった。(ジェックスはフランスにとって対ジュネーヴ前哨基地としての役割を果たしていた。)しかし司教は、それをジャンヌに、出発するまで知らせなかったというのだ。ジャンヌは旅の途中、司教が拠点とするアヌシーに寄った際に、初めて知らされたという。しかもその時、司教は「間もなく状況が変わるので、しばらくジェックスのヌーヴェル・カトリックに居てくれ」と、含みをもたせた説明だったと、ジャンヌは後に証言している。(2)
この時すでにジャンヌは、かなりの金額の寄付金をヌーヴェル・カトリックに支払わされていた。ジャンヌにすれば、あくまでもジュネーヴに行くことを前提に。
ジャンヌにすれば、「ぼったくり」とまでは言わずとも、このうえなく「話が違う!」・・・だった。

ジェックスはジュラ山脈にある町だ。空が澄んでいれば、向こうにモンブランを一望にできる。こじんまりとした居心地のいい場所だ。今なら、バスで一時間ほどでジュネーヴに行ける。そんなに不便でもない。だが、当時は厳しい自然の只中にある閑散とした集落だったらしい。

夕方、かなり遅くに、ようやくジェックスに到着した。
あてがわれた所は、四方の壁しかなかった。
ジュネーヴ司教は、家具があると言っていたのに。
本人はそう思っていたのだろうが。

しかたなく、カリタス会のシスターたちのもとに泊まった。
シスターたちは、善良にも自分たちのベッドを使わせてくれたのだ。

(a)

夕方遅く・・・ヨーロッパの夏は、午後9時から10時ごろまで明るい。
空はまるで暮れるのを忘れてしまったように、紫がかった微睡みに、ぼんやりと耽っている・・・

険しい山道を、おそらく馬車で登って、やっと町にたどり着いたのだろう。へとへとになって、自分たちにあてがわれた部屋に入ったら、中は空っぽだった。ベッドの一つもない・・・

司教は、ちゃんと家具があると言っていたのに・・・恨み節だ。
本人はそう思っていたのだろうが・・・大組織でありがちなことだ。トップと現場のコミュニケーションができていない。糸電話の伝言ゲーム状態だったのだろう。

カリタス会のシスターたち・・・と訳したが、おそらく正式には、カリタス修道女会と訳すべきだろう。カリタス(慈愛)を名に冠した会はたくさんあるが、現存する会とは違うものだろう。詳細は分からない。
ともかく、ヌーヴェル・カトリックの関係者は役に立ってくれなかったわけだ。その場にいなかったのか、お手上げだったのか・・・


3 涙を流すジャンヌ

自分のことではなく娘のことで、口ではとても表現できないような、経験しないと分からない断末魔の痛み苦しみに、わたしは悶えるばかりだった。
(…)
〈認知の信〉が落ち去り、自分は間違ったという確信のようなものが残った。
あんまりこころが痛むから、そっとベッドで、涙を流さずにはいられなかった。

(b)

夜ベッドの中で、(おそらく)横ですやすや眠っている娘を見て、責任感がずしんとのしかかってきた。でも、いまさらモンタルジに戻ることもできない・・・


〈認知の信〉が落ち去り、自分は間違ったという確信のようなものが残った・・・

〈認知の信〉と訳したけれど、 「洞察」と訳すのがいいかもしれない。気づくとか、認めるとか、観察とか発見でもいいだろう。あくまでも頭で考えるレベルの〈信〉だ。それが落ちて、静かに、こころに手を当てると、「自分は間違っていた」と、確かに直感したというのだ。

それまでジャンヌは、ヌーヴェル・カトリックの活動に参加すべきかどうか、逡巡し続けた。結局、「ジュネーヴ司教ほどの人がやろうとしていることなのだから、神のみむねにかなっているはずだ」とか「ヌーヴェル・カトリックは師のベルトも関わっていたところだから、間違いはないだろう」とか、そういう理屈でもって自分を納得させようとしてしまったのだろう。「この話に乗るしか、ジュネーヴに行ける方策もないし」と、打算的に妥協してしまったところもあっただろう・・・

ジャンヌにとって、「ジュネーヴ」という直感は、あくまでも従うべきものだった。けれど、それを日常レベルで分節して、具体化するところで間違ってしまったのだ。

そういうものなのだろう。

現代の静寂者たちもよく、大変なのは上昇道ではなく下降道だと言う。意識の〈底〉で根源的な無分節体験に留まりながらも、表層意識では、分節的日常を相手にする。その日常に合わせる塩梅、さじ加減が難しいのだろう。

もちろん、誰とも接触せずに籠っていれば、そんな苦労もないかもしれない。しかし、静寂者たちは日常の人間関係の渦のただなかで呼吸する。そして、世界にはたらきかけ続ける。

ジャンヌはしばらくの間、この「さじ加減」に苦慮することになる。


4 はじめの挫折

猪突猛進、やみくもにアルプスの麓までやって来たはいいものの、
着いた途端に「間違っていた」と、ベッドの中ではらはら涙するジャンヌ・・・

そんな人間味溢れる静寂者ジャンヌが、わたしは好きだ。リスペクトしかない。

おっちょこちょい。天然キャラ。よく言えば天真爛漫。そんなふうに、ジャンヌは周囲の仲間たちから見られていた。いつも仲間たちはひやひやだった。それがジャンヌらしさでもある。

無限の自由に遊ぶ人は、挫折を厭わないのだろう。挫折で悩み苦しむこともまた、本来の遊戯三昧なのだろう。


5 契約を拒否する

ジャンヌはジェックスで、ヌーヴェル・カトリックの活動現場に接した。「やはりアンゲランの言った通りだった」と、痛感せざるを得なかった。その非道なやり口は、彼女にとって、とても看過できるものではなかった。

ジャンヌは、団体への正式なコミットを拒否し、団体との契約に応じなかった。(パリを出発する前から再三、団体側から契約を促されたものの、ジャンヌはサインを留保し続けてきた。やはり、何かが違うという感覚が、当初からあったのだろう。)

ヌーヴェル・カトリック側は、ジャンヌをジェックスで院長にするという最大限のオファーを持ちかけた。普通に考えれば、これは決して悪くない話だ。おそらく名誉職のようなものだったろうが、それにしても何の実績もない在俗のジャンヌなのだから、破格のオファーだったと言えよう。しかし、ジャンヌは釣られなかった。そうした社会的な肩書きには、全く関心がなかった。
ジャンヌは生涯、無位無冠で通した。


6 逸脱した改宗強要

ジャンヌは、ヌーヴェル・カトリックの関係者に、こう直言した。

ヌーヴェル・カトリックのやり方は、外からの策略のゆえに、なんの魅力も感じない。(…)
一部の改宗のさせ方、その逸脱は、自分には納得できない。全てにおいてまっすぐであって欲しい。

(c)

「外からの策略」とは、国家権力の介入などだろう。「逸脱したやり方で改宗させる」と言うから、やはり、さっき書いたような悪辣な手段が取られていたに違いない。

ジャンヌは、さらに、こうも言った。

こんなふうに、実直さや誠実さ、正義からもかけ離れたたやり方をしたら、慈愛を惹きつけるためと思っていても、気づかないうちに冷え切ってしまって、慈愛も縮こまってしまうものだ。

(d)

正義からかけ離れている・・・とまで言うのだから、よほどの人権蹂躙行為が行われていたのだろう。

それにしても大胆な発言だ。
何しろ相手は絶対君主ルイ14世の意向で動いている権力団体だ。

ジャンヌは、いっさい忖度しない。空気を読まない。
たとえ世界が凍りついてしまっても、言うべきことをストレートに言う。

いろいろ失敗も多く、何度も窮地に追い込まれるジャンヌだが、いざという時に、しゃきっとする。ブレない。

こういう時のジャンヌには、自我意識の混じらない純粋にからっぽの〈わたし〉が、すっと、成っている。その〈わたし〉が〈神〉の意志を伝える道具となる・・・


7 闘いのはじまり

ジャンヌの批判に対して、ヌーヴェル・カトリック側は激しく反応した。

ヌーヴェル・カトリックは (…) 自分たちの暴力を無いものとして釈明するために、わたしを非難し、糾弾した。しかし非難、誹謗ばかりで、何の弁明もなかった。

(e)

何の弁明もなかった・・・すごい。ガチもいいところだ。
聖俗の両権力を背景にした大組織を相手に、一人で真っ向から対決するのだから、生半可なことではない。まさにドンキホーテだ。
(ちなみに余談だけれど、ジャンヌはドンキホーテを読んでいた。後に逮捕された時に蔵書として押収された。)

しかしこれは当然、ジャンヌにとって高くついた。後にジャンヌは国家権力、宗教権力の双方から猛攻撃されるが、その起点を遡れば、結局、この時のヌーヴェル・カトリックとの衝突に行き着くのだ。


8 違いは違いのままでいい

このヌーヴェル・カトリックの一件はジャンヌの生き様に転機をもたらした。

それまでジャンヌはプロテスタント信徒について、カトリック教会の言説を鵜呑みにしてきた。ジャンヌはマジョリティーの側にいた。「迷えるたましいであるプロテスタントを改宗させなければいけない」という支配言説に染まり、疑問を抱かなかった。しかし活動の現場に接すると、改宗政策の実態は、本来の信仰とかけ離れた政治的打算行為であり、人格の蹂躙というべき逸脱だった。

おそらくジャンヌはこの時期、プロテスタント信徒と直接の交流もあったのだろう。

カトリックかプロテスタントかという宗派の違いは、重要ではない。
違いは違いのままでいい。
それぞれが、それぞれのままでいい・・・

次第にジャンヌは、そう考えるようになった。

そうした宗派の違いといったことは、分節的な言語世界の次元、〈外〉の次元のことなのだ。肝要なのは、〈内〉の次元だ。
それぞれが〈沈黙の祈り〉を通して、無分節な〈神そのもの〉に没入し、そこでひとつになる。それだけだ。ほかのことは、全て副次的なことでしかない・・・


9 〈彼〉のうちでは全てがひとつです

違いは違いのままでいい。
きみはきみ、わたしはわたし、そのままでいい。

これは特に晩年のジャンヌにとっての、メイン・テーマだ。その折に、また詳しく書こうと思うが、でも、今のようなペースで書いていたら、いつになるやら・・・
待ってられないので、ここでちょっと、晩年のジャンヌの書いた手紙の一節を紹介しよう。

わたしたちを隔てる距離も、どんな違いも、わたしたちの妨げとは決してならないように。この〈神的対象〉のうちにわたしたちが結ばれる、その妨げとならないように。
〈彼〉のうちでは全てがひとつです。
柔らかく、どうにでも折りたためるようになりましょう。
神性の大洋の中に常に消えてなくなる水滴のように。

(f)

これは、ジャンヌの後期の盟友、ピエール・ポワレ(Pierre Poiret)に宛てた手紙の一節だ。ポワレはオランダに移り住んだプロテスタントのフランス語人だった。ジャンヌのテキストを精力的に出版し、彼女の〈内なる道〉をプロテスタント圏に伝えた重要人物だ。

神的対象・・・という表現が面白い。〈消滅〉のゼロ・ポイントに入って、もう〈神〉を名指ししてもしかたがない状態だろう。「主体・・であった〈わたし〉はなくなり、ただ神的な対象・・だけがある」と、ジャンヌはよく言う。

主体がなくなったら対象もなくなるはずだから、「対象」という言葉がいいのかどうかとも思うのだが……しかし、あまり理屈で平面的に割り切ってしまうと、体験の妙が掴めなくなるのだろう。

よくよく考えると、この「神的対象」という表現、なかなか味わい深い。

キリスト教の人格神的な愛のニュアンスがデリケートな風合いで含まれている。

ジャンヌにとって、究極の〈愛〉とは「愛する者も愛される者もない、ただの愛」という、無分節態の愛だ。絶対愛と言ってもいい。けれど、それでもやっぱり、そこには「一にして二、二にして一」という、〈あなた〉と〈わたし〉の濃密な香りがある。



さて、手紙をはじめから読んでいくと・・・

フランスとオランダという距離だけではなく、どんな違いも妨げにはならない・・・この「違い」でジャンヌが言いたかったのは、主にカトリックとプロテスタントという宗派の違いであることは、言うまでもない。(ジャンヌはカトリック教会から異端視され、投獄の憂き目にあっても、最後まで自分がカトリックだという自負を持っていた。きっと、ジャンヌにとって、信仰は自分で選ぶものではなく、恩寵によって自分が選ばれるものだという思いがあっただろう。)

この〈神的対象〉のうちにわたしたちが結ばれる、その妨げとならないように・・・
〈彼〉のうちでは全てがひとつです・・・

宗派の違い、思想信条の違いといった〈外〉の分節的な事柄を考えたりするな、というのだ。そんな副次的なことで頭を使っているかぎり、〈神的対象〉のうちに消滅できない。〈神的対象〉という無分節のうちでは、自他の区別もなく、その意味で、ひとつだ。(ゼロに溶け合う、と言ってもいいだろう。)それぞれが〈神的対象〉のうちに消滅することで、ひとつになり、わたしたちは結ばれることができる・・・

神性の大洋の中に常に消えてなくなる水滴のように・・・
それぞれの水滴は別々でも、大海に落ちて、溶けてしまえば、大海のうちに一緒だよ・・・

柔らかく、どうにでも折りたためるようになろう・・・
どうにでもなるように、柔らかくあれ、柔軟であれ…これは、静寂者の極意だ。ジャンヌは、よく水に喩える。老荘的な水だ。



この短い一節を読むだけでも、ジャンヌがプロテスタントかカトリックかといった違いに頓着しなくなった理由が、よく分かる。それは寛容の精神や、多様性の尊重といったこととも、ちょっと違うように思う。結果が同じだとしても。また、価値相対主義とも違う。あくまでも〈神そのもの〉に消滅するという無分節体験が中心となっている。



10 鈴木大拙の「一人」

長くなるから、ここらで切り上げたいと思うけれど、一言だけ付け加えよう。

ジャンヌは、宗教的なドグマ、規範、儀礼、宗教組織、宗教イデオロギーを否定しているわけではない。
「でも、肝心なのはそこじゃないよ」・・・と言っているわけだ。

肝心なのは、〈わたし〉と〈神〉のダイレクトな関わりだ。どこまでもとしての体験だ。



それにしても・・・「個」とか「個人」とか「個人主義」とかいう日本語、どうも「利己主義」と混同されたりして色眼鏡で見られがちで、特に最近なにやらウケが悪いようだ。

しかし、この翻訳語のもとの言葉、英語のindividual 、フランス語だったら individu などは、ラテン語の individuus が語源で、「もうこれ以上、分けられない」という意味あいだ。それは確かに、アトム化され数量化された単位としての「個」というニュアンスにもつながるだろうが、しかし、それだけではない。
「このわたしは、かけがえのない〈わたし〉だ。誰にも分解されない、どんな権力にも壊されない」・・・という全人格性としての〈わたし〉、たましいの叫びのようなニュアンスを聞き取るべきだろう。

こうした全人格性としての個を基礎とする傾向は、「人間は神の像だ」という人格神的一神教、キリスト教の特徴なのかもしれない。しかし、それはキリスト教にかぎったものでもない。超越と、個としての〈わたし〉の、ダイレクトな関係性は、一神教・多神教・無神教といったフレームにかかわらず、「受動性」系(スーフィズム、バクティ系、あるいは日本語圏の「他力」系)の神秘家、直覚者たちに、おうおうにして見られるものだ。



では、いろいろな匂いの染みついた「個人」という日本語を使わずに、何か他にいい言葉はないものだろうか? ・・・と、考えると・・・あった。

鈴木大拙の言葉に、かなりぴったりな言葉がある。

「一人」だ。

大拙の『日本的霊性』に出てくる。
ますます長くなるが、ほんの一言だけ、紹介しよう。


11 「霊性的直覚は孤独性のものである」

大拙は『日本的霊性』において、「宗教意識は霊性の経験である」と書く。この大拙の「霊性」という言葉は、主に「精神」に対して使われている。「精神」は「いつも二元思想を包んでいる」という。そのために矛盾、闘争から免れないという。それに対して「霊性」は「二にして一、一にして二」だという。

二つのものが対峙する限り、矛盾・闘争・相剋・相殺などいうことは免れない。それでは人間はどうしても生きて行くわけにいかない。なにか二つのものを包んで、二つのものが畢竟ずるに二つでなくて一つであり、また一つであってそのまま二つであるということを見るものがなくてはならぬ。これが霊性である。今までの二元的世界が相剋し相殺しないで、互譲し、交驩(こうかん)し、相即相入するようになるのは、人間霊性の覚醒にまつより外ないのである。

鈴木大拙『日本的霊性 完全版』角川ソフィア文庫 (p.30)

大拙は、この霊性の覚醒を「霊性的直覚」と呼ぶ。
そして「霊性の覚醒は個人経験」であり、「霊性的直覚は孤独性のものである」と書く。

その上で、こう書く。

個己の一人一人が超個己の一人◯◯に触れて、前者の一人一人が「親鸞一人◯◯のため」の一人になるのである。この妙機をつかむのがである。向こうに対象をおいてそれに向かって個己の一人が信をもつということでない。個己の一人は一人一人で、しかもそれがそのままに超個己の一人、、であるのである。この霊性的直覚は日本人の上に始めて出たので、これを日本的霊性といわなければならない。

同上(p.144)

この「日本的」という表現には、大拙の仕掛けがある。(3)

「個己」は「個人」の言い換えと思っていいだろう。
かけがいのない個としての〈おのれ〉だ。

超個己 / 個己 は、
ジャンヌだったら、
〈神〉/〈わたし〉だろう。

それを大拙は、さらに親鸞の言葉を使って、
一人○○ / 一人(ないし一人一人)・・・と置く。

(ルビで処理しちゃうなんて、センスがいい。)

一人(個己)で、それがそのまま一人◯◯(超個己)・・・

この掴みが、直覚者たち、静寂者たちの肝心だろう。

ジャンヌだったら、〈わたし〉を通して〈神〉が見るという、同時多次元的な感覚だ。「わたしが見ているのだけれど、わたしではない何かが見ている」という彼女の表現だ。


12 「親鸞ひとりがため」

ちなみに、ここで引用されている「親鸞一人がため」は、『歎異抄』の一節だ。

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。
(阿弥陀仏の、きわめて長期間にわたって思惟しゆいされた願いは、よくよく考えてみると、ひとえに親鸞一人のためなのであった。)

(『歎異抄』阿満利麿 訳・注・解説  ちくま学芸文庫)

これについて大拙は、こう書く。

親鸞一人◯◯のため」というこの一人◯◯に絶対的真実性があり、この真実性は霊性的直覚である。

(『日本的霊性 完全版』p.124)

また、こうも書く。

一人◯◯の具体性はまた一人◯◯の実在性である。これは人間が大地に還るとき始めて体認せられる。(…) 日本霊性は鄙人の胸に花咲く。

(同上 p.122)

日本的な霊性的直覚は、平安時代の宮廷人のような者ではなく、大地を耕し、大地に汗する「鄙人」の胸に花咲く・・・というのだ。

この霊性的体験の一人・・性について、大拙はこう説明する。

霊性そのものは超個己底であるが、個己を通さないと、それ自らを表現しないのである。すなわち「親鸞一人◯◯がためなりけり」ということにならないといけないのである。絶対愛はもとより超個己であるが、それが個己の上に直覚せられるとき、本当に絶対なのである。この矛盾が親鸞ーーそうしてやがて、われらの宗教的経験でなくてはならぬ。

同上(p.154)

一人◯◯ / 一人〉体験の矛盾性、同時多次元性が、ずばっと要約されている。
それにしても大拙流の親鸞体験には、ほとんど人格神的と言いたくなるほど、「一にして二、二にして一」の馥郁たる愛の香りが漂っている。

ただし「個己であり、それがそのまま超個己」という境地が成るには、いったん個己が否定されなければならない。大拙はいろんなふうに書いているが、例えば:

まこと、、、の絶対性は個己を打破して超個己の人に覿面(てきめん)するときである。(p.124)

一たび否定の爐鞴(ふいご)をくぐって来なければ霊性的なものとならぬのである。(p.150)

「ある」が「ある」でないということがあって、それが「あるがまま」に還るとき、それが本来の「あるがままのある」である。p.151)

ジャンヌ流に言えば、自我がすっかりほどかれて、〈わたし〉が〈わたし〉となってはじめて〈神そのもの〉にダイレクトに消融する。そして、〈わたし〉を通して〈神〉が意志する・・・

13 「宗教経験それ自体ではない」

大拙は、この「霊性的直覚」が、本当の意味での宗教だと書く。

これを本当の意味での宗教という。一般に解して居る宗教は制度化したもので、個人的宗教経験を土台にして、その上に集団意識的工作を加えたものである。霊性の問題は、そこにももとよりこれあるのであるが、多くの場合、単なる形式に堕するを常とする。宗教的思想、宗教的儀礼、宗教的秩序、宗教的情念の表象などいうものがあっても、それらは必ずしも宗教経験それ自体ではない。霊性はこの自体と聯関して居る。

同上 (p.33)

このあたりの息遣いは、ジャンヌの「わたしたちを隔てる距離も、どんな違いも、わたしたちの妨げとは決してならないように」という生き様とオーバーラップする。

カトリックかプロテスタントかという制度化された宗教の思想、儀礼などの違い、そうした集団意識的工作・・・・・・・の所産が、〈神そのもの〉という無分節態に消滅するという宗教経験それ自体・・・・、つまり〈一人◯◯/ 一人〉体験の妨げになってはならない・・・



(1) Alain Joblin " DIEU, LE JUGE ET L'ENFANT L'enlèvement des enfants protestants en France (ⅩⅦe - ⅩⅧe siècles)" Artois Presses Université など。書き忘れていたが、ヌーヴェル・カトリック Nouvelles Catholiques の意味は「新しいカトリック女性信徒たち」、改宗して新しくカトリックになった女性という意味。女性を対象にした施設だった。 

(2) Jean  Orcibal  "ETUDES D'HISTOIRE ET DE LITTERATURE RELIGIEUSES ⅩⅥe - ⅩⅧe siècles " KLINCKSIECK

(3) 『日本的霊性』は、1944年12月、戦争の最末期に出版された。この本で大拙が「精神」という言葉を使う時、彼の念頭には戦前・戦中に叫ばれた「日本精神」・「日本主義」があったと思って間違いない。戦中の彼の諸テキストからも十分に推察できる。(『禅に生きる 鈴木大拙コレクション』守屋友江 編訳 ちくま学芸文庫)「日本的霊性」は、国家主義的な「日本精神」に対するオルタナティブとして構想されたものだった。

本書で大拙は仏教にも触れているが、神道についても多く言及し、「神社神道または古神道などと称えられて居るものは、日本民族の原始的習俗の固定化したもので、霊性には触れて居ない。(…)霊性の光はまだそこから出て居ない。」などと記している。(これが戦時中によく出版されたものだ・・・)戦後1946年に二刷が出された際の『二刷りに序す』では、このいわば「裏テーマ(表か?)」に関連して、大拙はさらにストレートに「固陋・偏執・浅慮を極めた国学者の「神道」的イデオロギィは、これら諸主義(引用注:軍国主義・帝国主義・全体主義)に思想的背景を供給した。」などと評している。

大拙は、霊性は普遍性を持ち「どこの民族に限られたというわけのものではない」とした上で、しかし、それが精神活動として現れる際の「様式」としては「各民族に相異するものがある」として、「日本的霊性」なるものを語り得るとしている。そして、霊性の日本的なるものの「もっとも純粋な姿」を、浄土系思想と禅に見出している。その際、浄土系思想について、「真宗という教団とそれを基礎づけて居る真宗経験とをはっきり・・・・と区別する必要がある」と布石を打っている。(参考までに、当時の教団については例えば、中島岳志『親鸞と日本主義』新潮選書)そして「浄土系思想を自らに体得して」生きている者、つまり日本的霊性において生きている者が即ち妙好人だとして、妙好人について一篇を割いている。



(a) Nous arrivâmes le soir assez tard à Gex, où nous ne trouvâmes que les quatre murailles, quoique M. de Genève nous eût assuré qu'il y avait des meubles, ainsi qu'il le croyait apparemment. Nous couchâmes chez les soeurs de la Charité, qui eurent la bonté de nous donner leurs lits.

(b) Je souffris une peine et une agonie qui se pourraient mieux expérimenter que dire, non tant à cause de moi, qu'à cause de ma fille.(…)Alors toute foi aperçue me fut ôtée, et il me resta une espèce de certitude que j'étais trompée. La douleur s'empara de mon coeur en un point que dans mon lit, en secret, je ne pouvais retenir mes larmes.

(c) je lui témoignais même que je n'avais nul attrait pour la manière de vie des Nouvelles Catholiques, à cause des intrigues du dehors.(…)Je lui témoignai encore que certaines abjurations et certains détours ne me plaisaient pas, parce que je voulais que l'on fut droit en tout;

(d) sitôt que l'on prit cette manière d'agir si éloignée de la droiture et de la sincérité, et même de la justice, ce que l'on croyait faire pour attirer les charités eut pour effet, sans que personne sût rien de cela, que l'on se refroidit et que la charité se resserra.

(e) (D'autre côté, )les Nouvelles Catholiques (qui sont en fort grand crédit,) me blâmaient et condamnaient pour se disculper de leur violence. On ne voyait que condamnation et accusation sans aucune justification. 

(f) J’espère que ni la distance des lieux, ni nulle autre différence, ne nous empêcheront pas d’être réunis dans ce divin Objet qui rend tous un en Lui. Soyons si souples et si pliables que nous soyons comme des gouttes d’eau qui se perdent sans cesse dans l’océan divin.


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