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(静寂者ジャンヌ 21) この新しい自由に、ぼくはただ、驚くばかりだった。

ジャンヌは、ついに夜明けを迎える。

長く苦しい〈夜〉だった。

ジャンヌの物語での、最初のクライマックスだ。



ざっと、これまでを振り返ろう。

ジャンヌ・ギュイヨンは、1648年に
フランスのモンタルジという、
パリからそれほど遠くない小都市に生まれた。

太陽王ルイ14世の時代だ。

ジャンヌは、16歳で大富豪のもとに嫁に出され、
姑と夫の虐待を受け、
「奴隷」のような生活に閉じ込められた。

そんなある日、良き修道士の言葉がきっかけとなって、
ジャンヌは、静寂者の〈内なる道〉に目覚める。
自分の内に神という無限を発見した。

ジャンヌは〈沈黙の祈り〉と呼ばれる瞑想の修行をはじめる。

ジャンヌは、言葉ではなくfeeling で神を享楽した。
〈愛〉に耽溺した。

ところがそのうち、だんだん、feelingが消えていってしまった。
神が、感じられなくなってしまった。
ジャンヌは、不安と自信喪失に陥った。
内なる〈夜〉のはじまりだ。

〈夜〉は、自我ほどきのパッセージだ。
外界と内界の両方での、苦しみの時期だ。

〈外〉の日常では、
ジャンヌは父を失った。
お父さん子だったから、これはそうとうきつかった。
さらに、娘が亡くなった。
ジャンヌは娘を可愛がっていたから、大変なショックだったろう。

そして夫が亡くなり、未亡人になった。

そのころから、モラハラ男と、どろどろの恋愛もどきに陥った。

断交すると、男はストーカーとなった。
ジャンヌを誹謗中傷してまわった。
ジャンヌが息子の家庭教師とできているとか、
ストーカー男は、さまざまなデマを拡散した。

ジャンヌは、だらしなく、ふしだらな
悪徳の女として、町中で悪評がたった。


親族たちは、ジャンヌに再婚を迫った。
親族は、何よりも、亡夫の莫大な遺産を、
ジャンヌから引き剝がしたかったのだ。

それに、当時、未亡人になった女性は
再婚が当然のものとされていた。
それが嫌なら、修道院入りだった。

ジャンヌはその両方を拒否した。

親族たちのプレッシャーたるや、すごかっただろう。
誹謗中傷も利用して、
徹底的にジャンヌを追い詰めた。

まったく、散々な状況だった。

そんな中で、ジャンヌは夜明けを迎えた。

タフだ・・・

それでは、ジャンヌの夜明けがどんなだったか、自伝を読んで行こう。

1.〈消滅〉



それは幸せの日、マグダラのマリアの日。
ぼくのたましいは、あらゆる苦からパーフェクトに解放された。

このあたり、美しい文が続く。

マグダラのマリアの日は、聖女マグダラのマリアを祝した日で、七月二二日。(1)

このマグダラのマリアの日の前後に、ジャンヌの人生にとって節目となる出来事が色々と起こる。

(まあ、日にちが決まっているから、それにあわせればいいのだけれど・・・)

たとえば前の師ジュヌヴィエーヴ・グランジェが、ジャンヌと幼い子イエスとの「結婚の秘儀」を授けたのも、マグダラのマリアの日の前夜だった。

たましいがパーフェクトに解放される・・・

夜のトンネルを抜けた
光に満ちた解放感、開放感。

ジャンヌが、〈消滅〉anéantissement と呼ぶフェーズだ。
〈内なる道〉でのゼロ・ポイントだ。(2)

自我意識が消滅し、
その消滅したことすら
意識しなくなった。

なんにもない
なんでもない

すっからかん

ぼくは「自然本性」をすっかり乗り越えたようだった。

それまで「自然本性」の重みに、厳しく囚われていたぶんだけ、

よりいっそう上へと、超え昇ったようだった。

「自然本性」と訳したけれど、
「nature」だから、単純に「自然」でもいいだろう。
フランス語でも日本語でも、「自然」という言葉は多義的だ。

いずれにせよ、この場合、ジャンヌの念頭にあるのは「欲望」のことだ。

日本語だったら、「煩悩」がいいかもしれない。

ただ、あんまり道徳臭いニュアンスは必要ないだろう。

ジャンヌは、それまで
潜在意識下に抑圧されていた欲望が、
フラッシュのように回帰し、苦しんだ。

しまいには、
無意識の底からの、
死の欲動に衝き動かされた。

文字通り、死にそうになった。

しかし、ここにいたって、
そうした欲望・欲動の強迫から
ふと、楽になった。

自我が完全に落ちて
純粋な受動性に入ったからだ。
(静寂者ジャンヌ 20 参照)

そうやって考えると、
ここの「自然本性」は、結局、「自我」のことと捉えてもいいだろう。

その直後に「重さ」という言葉が出てくる。


「自然」の重力から解き放たれるような、のびのびとした感覚が、響いている。



考えてみれば、自我って、重力かもしれないな・・・


この新しい自由に、ぼくはただ、驚くばかりだった。
もうすっかり失ってしまったと思っていた自由が、戻ってくる。
かくも壮麗に、かくも純粋に。
ぼくの得たものは、あまりにシンプルで、
あまりに広大無辺で、表現のしようもない。

静寂とは

この広大無辺で
ダイナミックな自由のことだ。

どこまでも境界線がない。


決して、固定しない。

加速度的に上昇し、拡大していく。

そのダイナミックさ。

どんどん・・・・感。

かくも壮麗 ・・・
!
ヴェルサイユ宮殿なんて、めじゃなかっただろう。



もしかしたら、この夜明けの解放は、
教会での祈りのうちに起こったのかもしれない。

ジャンヌは常日頃、モンタルジの中心にある教会に通っていたはずだ。
その教会の名が、他ならぬ
「聖マドレーヌ教会」(マグダラのマリアのフランス語名)なのだ。

12世紀から建設が始まったこの教会は、
ジャンヌが通っていたであろう当時の面影を今に残している。

特に建物の中心部分の内陣は、ほぼ当時のままだとされる。

入ると、ガラーンとした雰囲気だ。

ステンドグラスの色合いが、あまり深くない。
そのせいもあるだろう、明るい印象の空間だ。
全体に、あまり装飾がない。

簡素なエレガンスを湛えている。

当時のステンドグラスがどんなだったか分からないし、
全体にもっと賑やかだったかもしれない。

でも、この簡潔で明晰な空間で、
ジャンヌが夜明けを迎えたと想像するのは、
なかなか愉しい。

モンタルジの聖マドレーヌ教会


2. やすらい人

ぼくの不安と苦しみは、安らい (paix) に変わった。

なんとかうまく説明するために、
それを「あんしん(paix-Dieu)」と呼ぼう。

たしかに、それまでの安らいも、
神の安らい、神のめぐみとしての安らいだった。

でもそれは、「安−神」じゃないんだ。

「安−神」は、神そのもののうちにある。
神のうちにしか、見出せない。

それまでもジャンヌは、神の安らいを受けてはいた。
でもそれは神の恵み、
つまり贈与として与えられていたものだった。
それは、〈わたし〉と〈神〉という、
主体と客体の分節が前提になっていた。

「主体」である〈わたし〉が、
〈神〉の贈与という「対象」として、
安らいをもらっていたのだ。

しかし、〈消滅〉の境地に至って
いっさいの分節がほどけ、
「主体」の〈わたし〉が消滅する。

そうすると、ただ〈神〉だけになる。

そうしたら、それはもう、「対象」ではなくなる。

主客未分。いっさい分別の影もない。
絶対無分節としての神そのもの・・・・・の現成だ。

そうなったら、贈与としての安らいは、もう感じられない。

無感無限だ。

すべてが安らいなのだから・・・

それが「あんしん」の境地だ。
(ダジャレのような訳になってしまった・・・)


安らい、というより、休らい。

ただ、神そのもの・・・・・のうちに、やすらっている。

というか、神そのもの・・・・・の、やすらっている。

すっからかんに、やすらっている・・・

やすらい人、ジャンヌ。

3. 生まれたての暁


面白いことに、
はじめは、ジャンヌはこの自由を
素直に喜んでいいのか、半信半疑だったという。


翻ってみれば、
〈道〉に入った最初のころ、

ジャンヌは、甘やかな〈神の現前〉をぞんぶんに享楽していた。

それが〈夜〉に入って、何も感じなくなってしまった。

そこから、がたがたと、自我が瓦解していった。

それは、まさに自分が壊れるような苦しい体験だった。

その苦い経験から、今、この新しい喜びを
素直に味わっていいのか、躊躇したのだ。

このあと、またしっぺ返しがあるんじゃないか?

とてつもなく大きな喜びを感じたのだけれども、
精神(理性)が、「やめとけ、喜ぶな」とブレーキをかけようとした。

しかし、そんな危惧も無用だった。

それは、ある状態の変化であり、

しばらくの間は続くであろうとは
ぼくも想定はしていた。


けれど、その至福が、
かくも大きく、
不変だとは、思いもよらなかった。

この幸せが、たとえ一日だけのものであっても、
それまでの長年の苦しみの代償として
何倍ものおまけがつくほどだった。
決して過言ではない。

まだ、生まれたての暁のような、幸せだったけれどもね。

生まれたての暁
いいなあ・・・

さらに、ジャンヌはこう書いている・・・

ぼくはそれまでよりも、
ずっと容易に、善い行いができるようになった。
とても自由に、気詰まりさもなく、
ごく自然に、善いことができるようだった。

意識しちゃわないで、さらっと何気なく、
人のために善いことができたというのだ。

「自然に naturellement」できるようだった・・・
「自ずから」だ。

この言葉、さっきの「自然本性 nature 」がもとになっている言葉だ。

「nature」、やっぱりポイントだ。

すっかり自我が落ちて、

意識の底、無意識のレベルまで、
おのれの「自然本性」が、浄化された・・・
ということだろう。

自我が落ちて、本来の「自然」が回復される・・・
といった解釈もありだろう。

そこまでいくと、
ただ、「自然」なままに任せていれば、
自ずと・・・、善いことをしている。
そういう状態になるのだという。

自我から解放されるとは、
こういうことなんだろう・・・


4. ビッグバン

はじめは、この自由はそれほど広がりがなかった。
けれど、進めば進むほど、自由が大きくなっていった。

どんどん大きくなっていく。
この、どんどん ・・・・感。

どんどん、広がっていく。

どんどん、膨らんでいく。

このビッグバン的な膨張感が、ジャンヌの特徴だ。

宇宙のビッグバンを、ダイレクトに感じる・・・
と言ったらいいだろうか。


どうやら、これは一過性のことじゃない・・・と、ジャンヌは悟った。

自分の状態の変化を、ジャンヌは師のベルトに告げた。

するとベルトは、ひとこと「ノン」と答えたという。

「変わっとらん」というのだ。

にべもない。

師と弟子ならではの、興味深いやりとりじゃないだろうか。

詳しく話す間もなく、しかもベルトは別のことに注意が向いていたから、
自分の状況がちゃんと理解できなかったのだろう…
と、ジャンヌは解釈している。

だが、もしかしたらベルトはちゃんと分かっていたのではないだろうか?

あえて「まだまだ」とそっけなく言って、喝を入れたのではないだろうか?

あるいは、ベルトは「否」と言う事で、夜明けを夜明けたらしめたのかもしれない。

ちなみに、この時すでに重い病にあったベルトは、翌年の四月に五十九歳で没する。

5. 自動カーテン

それでも(ベルトが「ノン」と言っても)、
ぼくは、至福のようなものが
日々、自分の中で増していくのを感じた。

ぼくは全ての苦しみから解放された。

それまでは、
自分が罪へと傾いていると思わずにはいられなかった。
けれど、その傾きからも、完全に解放された。

自我意識から解放された、その至福感だ・・・

自分への執着もなくなり、
自分を省みることもなく、
さまざまな善いことをしていたらしい。

自我への執着もなくなり、
自分を省みることもなくなったら、
意識しないままに、他人のためにはたらきかけた 
らしい・・・

「らしい」というのは、自分では気づかないから。

後で他人に言われて、ああそうだったのかと知るだけ。

それも、すぐ忘れてしまう。

もう、自分に関心がないから。



この、他者への無意識のはたらきかけは、
これからのジャンヌにとって重要になってくる。

受動性が極まって、能動性に転換する・・・と、ジャンヌは説明している。

「超能動性」といったところかな。

これまでは、ひたすら自分についての修行時代だった。

これからは、とめどなく他者に開かれていく。

それが、自由なのだろう・・・


もし、自分を省みることが生じたとしても、
はじめから消え去ってしまう。
まるでその思考に、カーテンがかかって、
それっきり、現れなくなるようなのだ。

反省的に自分を振り返る思考が生まれても、
すぐにカーテンがかかってしまうようだという。

まるで自動カーテンのように。

自分で省みるまいと意識しているわけではない。

勝手にカーテンが閉まるのだ。

これは、テクニックとしては、前回に触れたように、
反省的な思考が芽生えたらその瞬間その瞬間に落ちるに任せる。

自分で落とそうとしない。ただ、リラックスする。

指の間から、砂がこぼれ落ちるように・・・

それが、すっかり習慣化すると、
自動カーテンのできあがり、というわけだ。

ぼくのイマジネーションも、完全に固定された。
もう苦しくなかった。

自分の精神の明瞭さ、心の純粋さに、自分で驚くばかりだった。

あの抑圧回帰の妄想や、錯乱したイマジネーションもすっかり鎮まった。

頭もこころも、すっきり澄み切った境地に達した。



6. 無限加速度感

ぼくはあまりに自由になったから、
たとえ何も感じなくても、
一日中教会にいることだってできただろう。

そして、教会にいなくたって、
ちっとも苦じゃなかった。

広大無辺なとてつもなさのうちに、
どこにでも、見出すことができたんだ。
もう、ぼくが得ることのできない、それを。

その深淵のなかに、ぼくはすっかり没してしまった。

ジャンヌが体感する壮麗な風光が、感触として伝わってくる。

終わりのほうの、広大無辺なとてつもない広がりのうちに 以降、
読みやすくするために、原文を分解して
|それ《・・》と無粋に訳してしまったけれど、
この文で、ジャンヌは巧妙に
神という言葉を避けている感じがする。

面白いことに、このパートの前後では(長くなるから省略するけれど)、
ジャンヌは〈神〉を、〈あなた〉という二人称単数で押し切っている。

〈あなた〉への呼びかけの形式で書かれているのだ。

そこに、すっと、まるで映画のモンタージュのように、
この短い解説的な一節が挟まれている。

〈神〉が二人称から三人称に移るのだが、
しかし、〈神〉と名指ししないで済ませている。

まるで〈神〉という名がもう役に立たなくなっているかのように。

それほどまで濃密に、〈あなた〉と〈わたし〉が溶け合っている。

もう〈あなた〉も〈わたし〉もない・・・

無分節の愛だ。

たとえ何も感じなくても、一日中教会にいることだってできただろう・・・

何も感じない。

自我主体としての自分がなくなって
すっからかんになったから、
いくら教会でお祈りをしても、
〈神の現前〉も、その恵みとしての〈安らい〉も、
何も感じない。

それでも一日中、教会にいて、
みんなと一緒に
言葉による分節的な祈りを
唱えることだってできた。

意識の〈底〉で無分節が成っていながら、
表層の意識では、分節世界に参加している。

そういう重層的な自在さだ。

また逆に、教会にいなくたって、ちっとも苦じゃなかった・・・
広大無辺のうちに、どこにでも神を見出すことができたからだ、という。

これも典型的な重層性だ。

さっきも書いたように、
自我主体としての〈わたし〉が消滅したら、
同時に、対象世界も消滅し、
〈神〉だけになる。

すると、その〈神〉は、
もう〈神〉と呼ぶような分節対象ではなく、
神そのもの・・・・・という絶対無分節が、現成する。

そういう主体の意識も対象物もない、
「渾沌」としての、やすらい・・・

さて、そこから今度は、その絶対無分節が、
改めて、みずから分節化しはじめるのだ。

〈神〉の自己分節、自己顕現として、世界が新たに立ち現れてくる。

分節世界がよみがえりだす。

〈消滅〉=〈甦り〉のフェーズだ。
(これについては、註(2)を参照)

例えば、ジャンヌが教会の外に出て、
そこにひらける世界・・・

道を行き交う馬車

広場の日向に佇む無宿者

籠の中の鶏の声

市場のおしゃべり

どこかの窓からは昼食の料理の匂い

見上げれば夏空の青

煙突から出る煙

はしゃぎ声を出して駆け回る子どもたち

馬車からのっそり降りて教会に近づいて来る男性の

場違いなほどに派手派手しい羽で飾られた帽子

その彼がこちら側に向かって
「オ、ラー!」と叫んでいる

そんな全てが
まるで生まれたての新鮮さだ・・・

刻一刻と、よみがえっているようだ・・・

個々のものが、それぞれに分節されているのだけれど、
それぞれが神の自己分節だから、
それぞれが、無限だ。

それでいて、それぞれの分節を透かして、
神そのもの・・・・・という無分節を感じるだけなのだ。

広大無辺なとてつもなさのうちに、どこにでも、それを見出すことができた・・・
というのは、そういう重層性、多次元生。
(これについては、次回、詳しく考えよう。)


見出すといっても、〈神〉を、何らかの対象として
具体的にみつけるわけではない。
それは、かつてのことだ。

さっき言ったように、
自分も含めて、それぞれが
全て膨張しているから、
膨張していることもわからない。
ただ、その加速度感
どんどん・・・・感だけがある。

ジェットコースターに乗った時のような
あの感じだけが。


7. 幸せな喪失


でも、じゃあ、
その分節世界のよみがえりを
目の当たりにしているのは、
誰なんだ?

〈わたし〉なのか?

〈わたし〉は消滅したのではないか?

そう。
この世界のよみがえりを目の当たりにしているのは、
〈わたし〉なんだ。

〈わたし〉の意識が消滅して、
〈わたし〉の意識として甦る・・・

自我意識としての主体が消滅して、
なんでもないすっからかんの主体として、甦る・・・

「主体」というと、どうしても「体」があるイメージなので、
「主語」といったほうが、いいかもしれない。

空っぽの主語だ。

ジャンヌはよく「空っぽの運河」という表現を使う。

でも、「空っぽ」だったら、何を意識できるんだ?

「空っぽ」が「空っぽ」を意識するということだろう・・・

直感的な自覚というべきか・・・

その「空っぽの運河」である 〈わたし〉 の自覚を通して、
〈神〉が〈神〉の自己分節を意識している。

そういう透明な重層性、多次元性だろう。

見えるものも、見るものも、
結局、全部が神の自己分節、自己顕現なのだから・・・

ジャンヌは、この〈わたし〉を、
「持続する幸せな喪失」と表現する。

ああ、幸せな喪失。

それは脱魂現象(エクスターズ extase) のような
一時的な喪失ではない。
脱魂は、喪失というより、
むしろ一時的な忘我状態だろう。
たましいがその直後にふたたび戻るわけだから。

当時の多くの神学者たちは、
この〈わたし〉の重層性、多次元性が、理解できなかった。


喪失状態でずっといられるなんて馬鹿げていると、
彼らはジャンヌを愚弄し、糾弾した。

ジャンヌにすれば、そうした批判は、体験のない者の、見当違いでしかなかった。

そう言う人たちは、脱魂やトランスのような状態しか、
イメージできなかったのだろう。

だが、ジャンヌにすれば、脱魂現象(つまり、エクスタシー)だとか、
アヴィラのテレサで有名な「アロバミエント(法悦)」現象などは、
〈消滅〉に達する前の意識状態で起こることだ。

〈わたし〉の体験は、それとは別だ。


そうではなくて、恒常的、持続的な喪失。

常に、広大無辺な海に、どんどん喪失していく。

ちょうど、小さな魚が無限の海のなかで、
常に潜った状態で進むように。

でも、この比喩はあまり適切ではないようだ。
むしろ、こう言おう。

海のなかに放擲された小さな一滴の水のようだと。
それは、海と同じ性質を、常に、さらに、持つようになる。

 

海に放擲された一滴の水・・・
この比喩は、註(2)にもあるように
スーフィーも含め、神秘家たちの常套句だが、
ここでもやはり、ジャンヌの実感が
みずみずしく表出されている。

教会を出て、ジャンヌはモンタルジの街中を歩いている・・・

まるで、海の底に浮遊しているような、無重力感・・・

自分が海と同化して、無限に広がっていく・・・

海と同じ性質を、常に、さらに、持つようになる・・・

このどんどん・・・・感は、
〈わたし〉すっからかん・・・・・・を実感した時に
ダイレクトに直感する、
〈根源的ないのち〉の
無限のエネルギーと言ってもいいかもしれない。

誹謗中傷バッシングの只中で、
ジャンヌは、静寂者として花ひらいた。
泥に花咲く蓮のように。


8. 森

ぼくは田舎に長く滞在していた。
子どもたちもまだ小さかったので
あまり世話がかからず、
ぼくは一日中、森の中にこもっていられた。

そこは、かつて、
幸せと苦しみの月日を送った場所だ。

かつてその森で、
ぼくは苦しみに任せて
自分を破壊へと追い込んだものだ。

そして〈道〉の初期の頃には、
やはりその森で、
ぼくは〈愛〉に焼き尽くされた。

その森で、ますますぼくは
不思議な無限の深淵のうちに
身を任せるばかりだった。

ただ、消えてゆくばかりだった。

そこで、ぼくに起こった事は、語りようもない。

あまりにピュアで、あまりにシンプルで、
あまりに自分を脱したことだから。

ジャンヌは、森の中で、ひとり、三昧に浸った。

このくだりを読むと、
静寂者ジャンヌの誕生が、森とともにあったことが、よく分かる。

モンタルジ近辺の、ロワール川支流ロワン川一帯に広がる森は、
優しく穏やかな森だ。

春だったら、新緑が鮮やかだ。
木漏れ日に、
白や紫の小さな花々の絨毯が、
夢幻の揺らめきへと誘う。

秋だったら、光り輝く黄葉の隙間から、
抜けるような青空が見え隠れする。

そんな森の静謐の中で、ジャンヌは瞑想していたのだろう。


私に起こったことは語りようもない・・・というくだりは、
ジャンヌの書き方のひとつの特徴だ。

ジャンヌは〈内なる道〉を歩む方法論については、
自分の体験を執拗に分析し、それをもとに言語化する。

しかし、〈消滅〉での根源体験そのものについては、決して語らない。

それは彼女にとってあくまでも語り得ないものだし、
語ってはならないのだろう。



註 1.マグダラのマリア  2.井筒俊彦の「ゼロ・ポイント」

 
1.マグダラのマリア

マグダラのマリアは、ヨハネ福音書では、復活したイエスが最初に声をかけた相手として記されている。イエスが「マリア」と呼んで、マリアが「ラボニ」(ヘブライ語で「先生」の意味)と答えたという、とても美しい場面だ。イエスの復活の最初の証人の役割を担った彼女は、最初期キリスト教運動で重要な役割を果たした「傑出した指導者」だったとされている。しかしその後、彼女についての歴史的記憶はミソジニー的に歪められ、聖書的・歴史的基盤もなく「悔い改めた売春婦」というイメージに塗り替えられてしまう。(山口里子『マルタとマリア イエスの世界の女性たち』新教出版社)

2. 井筒俊彦の「ゼロ・ポイント」

ジャンヌの〈消滅〉を理解するには、井筒俊彦の「ゼロ・ポイント」モデルがとても有効だ。以下、彼の『イスラーム哲学の原像』を中心に、紹介しよう。
この本は、西暦12世紀から13世紀にかけての神秘家・哲学者イブン・アラビーの系譜の「存在一性論」形而上学をもとにスーフィズムの観想体験を構造化する内容のものだ。井筒のもくろみは、この形而上学を「たんにイスラーム哲学史の一章とし」扱うのではなく、そこから「東洋的思惟の根源的なパターン」を抽出し、「東洋哲学全体の新しい構造化、解釈学的再構成」を図ろうというものだ。

井筒は、(「存在一性論」的な)スーフィーの観想体験のプロセスを、おおむね以下のような三角形で図式化する。

 「イスラーム哲学の原像」井筒俊彦全集 第五巻 p.497

 (分かりやすくするため、原図に「ゼロ・ポイント」「経験世界」を加えた)



なんか、うまく描けないなあ。
左側の、上に昇る矢印が、「上昇道」(「向上道」)ーアラビア語で「スウード(登り)」
右側の、下に降りる矢印が、「下降道」(「向下道」)ーアラビア語で「ヌズール(下り)」

底辺が、わたしたちの日常での、意識と存在の「経験世界」。
そこから上昇して、頂点の「意識・存在のゼロ・ポイント」に至り、
再び、経験世界へと下降する。

(井筒はこの図式化を、東洋的思惟の「共時的構造」として、広く応用するようになる。)

1 ) 上昇・「ファナー(消滅)」

スーフィーは観想修行によって、三角形の底辺の経験世界から、意識の深みへと入っていく。(あるいは、意識の深部が開かれていく、と言ってもいい。)つまり、図の「上昇道」をたどっていく。
(意識が深みに沈むのに、「上昇」というのがぴんと来なかったら、三角形の上下を逆にしてもいい。本書で、井筒は、意識のプロセスに特化するときは逆三角形を描いている。)

井筒は、この上昇道のプロセスについて、こう書く。

意識の深部が開かれていきますと、この現実の言語的分節の枠組みがだんだん取り除かれていきます。まず第一に、事物相互の区別がはっきりしなくなってくる。

「イスラーム哲学の原像」井筒俊彦全集 第五巻 (慶應義塾大学出版会) p.492

そしてさらに意識が深化すると、

ついにまったく内的に何もない完全な一になってしまう。もうそこではかつてもの・・であったものの痕跡すらありませんので、その意味で無であります。そこではもはや、見るものも見られるものもありません。

(同 p.493)

主体も客体もなく、意識も世界も、いっさいの分節が消える。

これは、スーフィーズムでは、シッル(秘密)と呼ばれる意識の最深層の体験だ。

普通の意味での意識を完全に超えた無意識の深みであります。スーフィズム的形象表現では、この聖なる場所で魂はあたかも一滴の水のごとく絶対的な実在の大海のなかに消融してしまうと申します。

(同 p.450)

この「シッル」は、ジャンヌの「中心」に相当する。(このnote の静寂者ジャンヌ 19 参照)
「大海に落ちた一滴の水」の比喩は、ジャンヌでもおなじみの比喩だ。

そして、

ここに至って修行者の自我意識は完全に払拭されます。それまで彼の人間的実存の中核をなしてきました「われあり」の意識はあますところなく消え去って、無に帰してしまう。

(同 p.450)

この自我消滅の体験を、スーフィーたちは「ファナー(消滅)」と呼ぶ。

以上、上昇道から「ファナー」に至るプロセスについて、井筒は、こんなふうにまとめている。長くなるけれど、わかりやすいので紹介しよう。

われわれは普通、世界の到るところに存在の分節された形だけを見る。分節されない、根源的な未分節としての存在、すなわち形而上的無はどこにも見当たりません。それが見えるようになるためには、どうしても表層意識全体がその認識作用を停止しなければなりません。そして表層意識が全面的にその働きを止めるためには、どうしても、その中心をなす自我意識が完全に払拭されることが必然です。自我の消滅とはここでは、あらゆるものを対象化して見る、つまりこれこれのもの・・・・・・・として分節的に見る表層意識の主体性が消滅すること。そのような、宋学の術語で言えば「已発いはつ」の心の状態が消えて「未発みはつ」の原初的状態に落ちついたとき、はじめて絶対無分節の存在と、()意識がぴたりと一致するのでありまして、こういう意味での自我意識の消滅をイスラーム哲学では術語的にファナーと申します。ファナーとはアラビア語で文字通り「消滅」という意味、つまり自我意識の主体性の消滅です。

(同 p.537)


2 ) 「ファナーのファナー」・「ゼロ・ポイント」

しかし、実は、よくよく考えると「ファナー」の先があるのだ。

しかし考えてみれば、自我が無化したといっても、その無化された自我の意識そのものが残存している限り、無もまた一種の「他者」であるわけですから、ファナーの意識自体も無化されるのでなければファナーは完成したとは申されません。

(同 p.539)

つまり、「無を無として意識する意識すらない」(同 p.493)という境地に入らなければならない・・・

仏教でもよく「空」が現成したところで、その「空もまた空され」なければならないなどと申しますが、それと同じくイスラームでは上昇道の究極として「ファナーのファナー」を説きます。「ファナーのファナー」まできてはじめて「ファナー」は完了する。

(同 p.539)

この「ファナーのファナー」、つまり「消滅の消滅」が、「意識・存在のゼロ・ポイント」だ。三角形の頂点だ。(ただし一般には、「ファナー」という用語は、この「ファナーのファナー」も含めて使われる。)

ここで、ようやく、さっきあったように、「絶対無分節の存在」と「)意識」が、ぴたりと一致する。

主体的意識が観想状態の究極において完全に消滅して無となる、この意識のゼロ・ポイントに忽然として現れてくる実在のゼロ・ポイント、これを絶対無と見ることは、存在論的に申しますと、それを実在の絶対無分節の状態、内的にまったく分節されていない、区別されていない、まったく限定されていない状態として見ることであります。

(同 p.493)

「道元の『身心脱落』の体験を思わせます」と、井筒は、さらりと指摘する。


3) ジャンヌの場合

ジャンヌの〈消滅〉は、同じ「消滅」という意味から「ファナー」に当てはめたくなるが、厳密にはそうではなく、「ファナーのファナー」に相当する。

「ファナー」のポイントは、ジャンヌにとって、〈消滅〉の手前の体験、つまり〈死〉の境地だ。

ジャンヌは、神秘の〈死〉の体験で、すっかり自我がほどかれ、完全な受動性に入った。(静寂者ジャンヌ 20 参照)
ここが「ファナー」だ。

しかし、ジャンヌによれば〈死〉の状態はまだ不安定で、自我が戻ってしまいかねないという。しばらく慣れの時間が必要だという。これをジャンヌは〈他界期間〉と呼ぶ。
そのうち、〈死〉さえも意識しなくなるという。つまり、〈死〉も死ぬのだ。
そこまでいって、はじめて絶対無分節が現成する。
そのポイントが、ジャンヌにとっての〈消滅〉であり、
スーフィーにおける「ファナーのファナー」だ。


4 )「バカー(存続)」・下降

さて、ここから下降の道に入る。
この「われ」の消滅の消滅は、新しい「われ」の甦りでもある。
井筒はこの新しい「われ」を「神秘主義的主体」とか、「超越的主体」と呼ぶ。
ジャンヌは、よく「古い〈わたし〉が死に、新しい〈わたし〉が生まれる」と、表現をする。

このプロセスについて、井筒はこう説明する。

身心脱落の体験で脱落しきった身心が、こんどは「脱落身心」に飛躍的に転換しなくてはならないように、イスラームでも、ひとたびファナーにおいて無化された意識は、突如逆転して無の意識にならなければならない。意識の無が、無の自覚として甦るとでもいったらいいでしょうか。そういう新しい超越的主体としての意識が、理論的にファナーの次の段階であるバカーです。これが神秘主義では下降道として表象されます。

(同 p.539)

このバカーは「存続」
ジャンヌにおける〈甦り〉だ。

井筒は、こう続ける。

バカーとは、もともとのアラビア語の意味では「残る」ということ。術語的には自己存続、一度無化された意識があらためて有化されたところに成立する主体性です。いま有化と申しましたが、この有とは、仏教でいう「妙有みょうう」に大体当るものであることはいうまでもありません。こうして戻ってきた主体性は、始めから何べんも申しました深層意識なのでして、見かけだけは以前の、つまりファナーを経過しない頃の表層意識と同じ人間実存の主体性ですけれど、その内的構造はまるで違います。それが表層意識と深層意識との間の違いです。

(同 p.540)

「表層意識」は、三角形の底辺の「経験世界」での意識であり、言語分節をもとにした自我意識だ。
「深層意識」は、三角形の頂点の「ゼロ・ポイント」を経過した意識だ。ジャンヌの〈底〉だ。
つまり、ゼロ・ポイントとしてのファナー体験があるかないかで、決定的な違いがあるというのだ。

バカー状態に入って、意識が甦ると、その人の目の前には、かつてのように分節された「普通の現象的多者世界」・・・ジャンヌの言う〈多〉の世界が、よみがえってくる。

しかし、このバカー状態の意識は、あくまでもファナーを経過した意識であり、「すべての限定性を無化したところに成立した意識」だ。
つまり、すべての分節がほどけたところに成立した意識だ。

だから、表面的な分節世界を見ていても、同時に、その源泉の絶対無分節が透けて見えている。

そのような人は自分自身をも、自分のまわりに見える一切の事物をもことごとく絶対的一者のさまざまに異なる限定形態であることを見透している。そのようなものとして、現象的世界が彼の意識には映るのであります。多でありながら一、一でありながら多、という古来東洋哲学諸伝統を通じて流れている根源的な形而上学のテーマが、ここでも鮮明な形をとって成立しております。

( 同p.540 )

このように、表面の分節的な〈多〉の世界を見ながら、それを顕現させている絶対無分節としての〈一〉を見透かしている到達者を、イスラームでは「双眼の士」と呼ぶ。

この重層的な見え方は、まさに〈甦り〉に入ったジャンヌの見え方だ。

だいたい以上のようなプロセスだが、
・・・ただ注意したいのは、ゼロ・ポイントに達することを目的化するわけでは、決してない。
「オレのほうが高いぞ」じゃないんだから・・・

いつだって、はじめの一歩が、最後の一歩だろう。
(そんなことを、クリシュナムルティが言ってなかったっけ?)

しかし、ゼロ・ポイントを経るか経ないかでは、まったく違うのだと、井筒は強調する。

「消滅」の体験を経ない「存続」は意味を持たない。そんなものは「存続」ではない。「消滅」の体験知から全てが始まるのである。

『ルーミー語録』解説(井筒俊彦全集 第五巻 p.141)




以上をまとめて、改めて図にすると、こんな感じだろうか?
もうちょっと、微妙なところがうまく描けないので、とりあえず、整理として・・・
(紫色が、ジャンヌだ。)

というわけで以上が、井筒の「ゼロ・ポイント」モデルのスーフィー・バージョンだが、もちろん、井筒の「東洋」と、キリスト教のジャンヌとでは、違いがある。特に「無」の取り扱いについては、かなり決定的な違いがあると思う。

そもそも、一見、いかにも「非・東洋」のジャンヌは、井筒がもし仮に知る機会があったとしても、彼にとって最も遠い、関心の薄い存在だったのではないか。

井筒は、そのあまりに人格神的な性質からだろう、ある時期から、キリスト教思想からどんどん遠ざかって行った。(『神秘哲学』では、十字架のヨハネまで書く構想もあったのだが。唯一、クレルヴォーのベルナールについての珠玉の論考が、単品として残っている。[井筒俊彦全集 第二巻])
「共時的構造化された東洋哲学の諸伝統を、どうやって自分自身の思想的エネルギーに転換できるか」が、井筒の主たる関心ごとになっていった。 (「東西の哲学 [今道友信との対談] 井筒俊彦全集 第五巻)

ちなみに、ジャンヌの特徴である「受動性」も、人格神的な〈愛〉と関連している。大拙が浄土真宗の「他力」を通して、この「受動性」に着目したのに比して、井筒の哲学では「受動性」が前面に出てこないのも興味深い。

では、どうして井筒の「東洋」モデルが、ジャンヌ理解に有効に機能するのだろうか? 

ひとつには、キリスト教神秘思想、特にジャンヌの系譜である「愛の神秘思想」と、スーフィズムとの間に、近親性があるからだろう。(もともと、一神教のキリスト教とイスラム教は、近い。さらに、キリスト教神秘思想とスーフィズムは、いってみれば姉妹関係にある。特に、キリスト教神秘思想のなかでもジャンヌの系譜である「愛の神秘思想」は、スーフィズムと親和性が高い。歴史的にも、イベリア半島で、ユダヤ教神秘思想を介して、スーフィズムからキリスト教神秘思想への影響があったとも言われる。)

また、ジャンヌが徹底的に実践的、プラグマティックなために、その体験知の言語化が、キリスト教の枠を逸脱して、図らずして、東洋的神秘道との顕著な「共時性」を持ったのかもしれない。

もちろん、井筒本人の体験知の深さが根底にあるだろう。

それにしても、井筒にとっての「東洋」とは、なんだろうねえ?



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