(静寂者ジャンヌ 21) この新しい自由に、ぼくはただ、驚くばかりだった。
ジャンヌは、ついに夜明けを迎える。
長く苦しい〈夜〉だった。
ジャンヌの物語での、最初のクライマックスだ。
*
ざっと、これまでを振り返ろう。
ジャンヌ・ギュイヨンは、1648年に
フランスのモンタルジという、
パリからそれほど遠くない小都市に生まれた。
太陽王ルイ14世の時代だ。
ジャンヌは、16歳で大富豪のもとに嫁に出され、
姑と夫の虐待を受け、
「奴隷」のような生活に閉じ込められた。
そんなある日、良き修道士の言葉がきっかけとなって、
ジャンヌは、静寂者の〈内なる道〉に目覚める。
自分の内に神という無限を発見した。
ジャンヌは〈沈黙の祈り〉と呼ばれる瞑想の修行をはじめる。
ジャンヌは、言葉ではなくfeeling で神を享楽した。
〈愛〉に耽溺した。
ところがそのうち、だんだん、feelingが消えていってしまった。
神が、感じられなくなってしまった。
ジャンヌは、不安と自信喪失に陥った。
内なる〈夜〉のはじまりだ。
〈夜〉は、自我ほどきのパッセージだ。
外界と内界の両方での、苦しみの時期だ。
〈外〉の日常では、
ジャンヌは父を失った。
お父さん子だったから、これはそうとうきつかった。
さらに、娘が亡くなった。
ジャンヌは娘を可愛がっていたから、大変なショックだったろう。
そして夫が亡くなり、未亡人になった。
そのころから、モラハラ男と、どろどろの恋愛もどきに陥った。
断交すると、男はストーカーとなった。
ジャンヌを誹謗中傷してまわった。
ジャンヌが息子の家庭教師とできているとか、
ストーカー男は、さまざまなデマを拡散した。
ジャンヌは、だらしなく、ふしだらな
悪徳の女として、町中で悪評がたった。
親族たちは、ジャンヌに再婚を迫った。
親族は、何よりも、亡夫の莫大な遺産を、
ジャンヌから引き剝がしたかったのだ。
それに、当時、未亡人になった女性は
再婚が当然のものとされていた。
それが嫌なら、修道院入りだった。
ジャンヌはその両方を拒否した。
親族たちのプレッシャーたるや、すごかっただろう。
誹謗中傷も利用して、
徹底的にジャンヌを追い詰めた。
まったく、散々な状況だった。
そんな中で、ジャンヌは夜明けを迎えた。
タフだ・・・
*
それでは、ジャンヌの夜明けがどんなだったか、自伝を読んで行こう。
1.〈消滅〉
このあたり、美しい文が続く。
マグダラのマリアの日は、聖女マグダラのマリアを祝した日で、七月二二日。(1)
このマグダラのマリアの日の前後に、ジャンヌの人生にとって節目となる出来事が色々と起こる。
(まあ、日にちが決まっているから、それにあわせればいいのだけれど・・・)
たとえば前の師ジュヌヴィエーヴ・グランジェが、ジャンヌと幼い子イエスとの「結婚の秘儀」を授けたのも、マグダラのマリアの日の前夜だった。
*
たましいがパーフェクトに解放される・・・
夜のトンネルを抜けた
光に満ちた解放感、開放感。
ジャンヌが、〈消滅〉anéantissement と呼ぶフェーズだ。
〈内なる道〉でのゼロ・ポイントだ。(2)
自我意識が消滅し、
その消滅したことすら
意識しなくなった。
なんにもない
なんでもない
すっからかん
「自然本性」と訳したけれど、
「nature」だから、単純に「自然」でもいいだろう。
フランス語でも日本語でも、「自然」という言葉は多義的だ。
いずれにせよ、この場合、ジャンヌの念頭にあるのは「欲望」のことだ。
日本語だったら、「煩悩」がいいかもしれない。
ただ、あんまり道徳臭いニュアンスは必要ないだろう。
ジャンヌは、それまで
潜在意識下に抑圧されていた欲望が、
フラッシュのように回帰し、苦しんだ。
しまいには、
無意識の底からの、
死の欲動に衝き動かされた。
文字通り、死にそうになった。
しかし、ここにいたって、
そうした欲望・欲動の強迫から
ふと、楽になった。
自我が完全に落ちて
純粋な受動性に入ったからだ。
(静寂者ジャンヌ 20 参照)
そうやって考えると、
ここの「自然本性」は、結局、「自我」のことと捉えてもいいだろう。
その直後に「重さ」という言葉が出てくる。
「自然」の重力から解き放たれるような、のびのびとした感覚が、響いている。
*
考えてみれば、自我って、重力かもしれないな・・・
静寂とは
この広大無辺で
ダイナミックな自由のことだ。
どこまでも境界線がない。
決して、固定しない。
加速度的に上昇し、拡大していく。
そのダイナミックさ。
どんどん感。
かくも壮麗 ・・・
!
ヴェルサイユ宮殿なんて、めじゃなかっただろう。
*
もしかしたら、この夜明けの解放は、
教会での祈りのうちに起こったのかもしれない。
ジャンヌは常日頃、モンタルジの中心にある教会に通っていたはずだ。
その教会の名が、他ならぬ
「聖マドレーヌ教会」(マグダラのマリアのフランス語名)なのだ。
12世紀から建設が始まったこの教会は、
ジャンヌが通っていたであろう当時の面影を今に残している。
特に建物の中心部分の内陣は、ほぼ当時のままだとされる。
入ると、ガラーンとした雰囲気だ。
ステンドグラスの色合いが、あまり深くない。
そのせいもあるだろう、明るい印象の空間だ。
全体に、あまり装飾がない。
簡素なエレガンスを湛えている。
当時のステンドグラスがどんなだったか分からないし、
全体にもっと賑やかだったかもしれない。
でも、この簡潔で明晰な空間で、
ジャンヌが夜明けを迎えたと想像するのは、
なかなか愉しい。
2. やすらい人
それまでもジャンヌは、神の安らいを受けてはいた。
でもそれは神の恵み、
つまり贈与として与えられていたものだった。
それは、〈わたし〉と〈神〉という、
主体と客体の分節が前提になっていた。
「主体」である〈わたし〉が、
〈神〉の贈与という「対象」として、
安らいをもらっていたのだ。
しかし、〈消滅〉の境地に至って
いっさいの分節がほどけ、
「主体」の〈わたし〉が消滅する。
そうすると、ただ〈神〉だけになる。
そうしたら、それはもう、「対象」ではなくなる。
主客未分。いっさい分別の影もない。
絶対無分節としての神そのものの現成だ。
そうなったら、贈与としての安らいは、もう感じられない。
無感無限だ。
すべてが安らいなのだから・・・
それが「安−神」の境地だ。
(ダジャレのような訳になってしまった・・・)
安らい、というより、休らい。
ただ、神そのもののうちに、やすらっている。
というか、神そのものの、やすらっている。
すっからかんに、やすらっている・・・
やすらい人、ジャンヌ。
3. 生まれたての暁
面白いことに、
はじめは、ジャンヌはこの自由を
素直に喜んでいいのか、半信半疑だったという。
翻ってみれば、
〈道〉に入った最初のころ、
ジャンヌは、甘やかな〈神の現前〉をぞんぶんに享楽していた。
それが〈夜〉に入って、何も感じなくなってしまった。
そこから、がたがたと、自我が瓦解していった。
それは、まさに自分が壊れるような苦しい体験だった。
その苦い経験から、今、この新しい喜びを
素直に味わっていいのか、躊躇したのだ。
このあと、またしっぺ返しがあるんじゃないか?
とてつもなく大きな喜びを感じたのだけれども、
精神(理性)が、「やめとけ、喜ぶな」とブレーキをかけようとした。
しかし、そんな危惧も無用だった。
生まれたての暁
いいなあ・・・
さらに、ジャンヌはこう書いている・・・
意識しちゃわないで、さらっと何気なく、
人のために善いことができたというのだ。
「自然に naturellement」できるようだった・・・
「自ずから」だ。
この言葉、さっきの「自然本性 nature 」がもとになっている言葉だ。
「nature」、やっぱりポイントだ。
すっかり自我が落ちて、
意識の底、無意識のレベルまで、
おのれの「自然本性」が、浄化された・・・
ということだろう。
自我が落ちて、本来の「自然」が回復される・・・
といった解釈もありだろう。
そこまでいくと、
ただ、「自然」なままに任せていれば、
自ずと・・・、善いことをしている。
そういう状態になるのだという。
自我から解放されるとは、
こういうことなんだろう・・・
4. ビッグバン
どんどん大きくなっていく。
この、どんどん 感。
どんどん、広がっていく。
どんどん、膨らんでいく。
このビッグバン的な膨張感が、ジャンヌの特徴だ。
宇宙のビッグバンを、ダイレクトに感じる・・・
と言ったらいいだろうか。
*
どうやら、これは一過性のことじゃない・・・と、ジャンヌは悟った。
自分の状態の変化を、ジャンヌは師のベルトに告げた。
するとベルトは、ひとこと「ノン」と答えたという。
「変わっとらん」というのだ。
にべもない。
師と弟子ならではの、興味深いやりとりじゃないだろうか。
詳しく話す間もなく、しかもベルトは別のことに注意が向いていたから、
自分の状況がちゃんと理解できなかったのだろう…
と、ジャンヌは解釈している。
だが、もしかしたらベルトはちゃんと分かっていたのではないだろうか?
あえて「まだまだ」とそっけなく言って、喝を入れたのではないだろうか?
あるいは、ベルトは「否」と言う事で、夜明けを夜明けたらしめたのかもしれない。
ちなみに、この時すでに重い病にあったベルトは、翌年の四月に五十九歳で没する。
5. 自動カーテン
自我意識から解放された、その至福感だ・・・
自我への執着もなくなり、
自分を省みることもなくなったら、
意識しないままに、他人のためにはたらきかけた
らしい・・・
「らしい」というのは、自分では気づかないから。
後で他人に言われて、ああそうだったのかと知るだけ。
それも、すぐ忘れてしまう。
もう、自分に関心がないから。
*
この、他者への無意識のはたらきかけは、
これからのジャンヌにとって重要になってくる。
受動性が極まって、能動性に転換する・・・と、ジャンヌは説明している。
「超能動性」といったところかな。
*
これまでは、ひたすら自分についての修行時代だった。
これからは、とめどなく他者に開かれていく。
それが、自由なのだろう・・・
反省的に自分を振り返る思考が生まれても、
すぐにカーテンがかかってしまうようだという。
まるで自動カーテンのように。
自分で省みるまいと意識しているわけではない。
勝手にカーテンが閉まるのだ。
これは、テクニックとしては、前回に触れたように、
反省的な思考が芽生えたらその瞬間その瞬間に落ちるに任せる。
自分で落とそうとしない。ただ、リラックスする。
指の間から、砂がこぼれ落ちるように・・・
それが、すっかり習慣化すると、
自動カーテンのできあがり、というわけだ。
あの抑圧回帰の妄想や、錯乱したイマジネーションもすっかり鎮まった。
頭もこころも、すっきり澄み切った境地に達した。
6. 無限加速度感
ジャンヌが体感する壮麗な風光が、感触として伝わってくる。
終わりのほうの、広大無辺なとてつもない広がりのうちに 以降、
読みやすくするために、原文を分解して
|それ《・・》と無粋に訳してしまったけれど、
この文で、ジャンヌは巧妙に
神という言葉を避けている感じがする。
面白いことに、このパートの前後では(長くなるから省略するけれど)、
ジャンヌは〈神〉を、〈あなた〉という二人称単数で押し切っている。
〈あなた〉への呼びかけの形式で書かれているのだ。
そこに、すっと、まるで映画のモンタージュのように、
この短い解説的な一節が挟まれている。
〈神〉が二人称から三人称に移るのだが、
しかし、〈神〉と名指ししないで済ませている。
まるで〈神〉という名がもう役に立たなくなっているかのように。
それほどまで濃密に、〈あなた〉と〈わたし〉が溶け合っている。
もう〈あなた〉も〈わたし〉もない・・・
無分節の愛だ。
*
たとえ何も感じなくても、一日中教会にいることだってできただろう・・・
何も感じない。
自我主体としての自分がなくなって
すっからかんになったから、
いくら教会でお祈りをしても、
〈神の現前〉も、その恵みとしての〈安らい〉も、
何も感じない。
それでも一日中、教会にいて、
みんなと一緒に
言葉による分節的な祈りを
唱えることだってできた。
意識の〈底〉で無分節が成っていながら、
表層の意識では、分節世界に参加している。
そういう重層的な自在さだ。
*
また逆に、教会にいなくたって、ちっとも苦じゃなかった・・・
広大無辺のうちに、どこにでも神を見出すことができたからだ、という。
これも典型的な重層性だ。
さっきも書いたように、
自我主体としての〈わたし〉が消滅したら、
同時に、対象世界も消滅し、
〈神〉だけになる。
すると、その〈神〉は、
もう〈神〉と呼ぶような分節対象ではなく、
神そのものという絶対無分節が、現成する。
そういう主体の意識も対象物もない、
「渾沌」としての、やすらい・・・
さて、そこから今度は、その絶対無分節が、
改めて、みずから分節化しはじめるのだ。
〈神〉の自己分節、自己顕現として、世界が新たに立ち現れてくる。
分節世界がよみがえりだす。
〈消滅〉=〈甦り〉のフェーズだ。
(これについては、註(2)を参照)
*
例えば、ジャンヌが教会の外に出て、
そこにひらける世界・・・
道を行き交う馬車
広場の日向に佇む無宿者
籠の中の鶏の声
市場のおしゃべり
どこかの窓からは昼食の料理の匂い
見上げれば夏空の青
煙突から出る煙
はしゃぎ声を出して駆け回る子どもたち
馬車からのっそり降りて教会に近づいて来る男性の
場違いなほどに派手派手しい羽で飾られた帽子
その彼がこちら側に向かって
「オ、ラー!」と叫んでいる
そんな全てが
まるで生まれたての新鮮さだ・・・
刻一刻と、よみがえっているようだ・・・
個々のものが、それぞれに分節されているのだけれど、
それぞれが神の自己分節だから、
それぞれが、無限だ。
それでいて、それぞれの分節を透かして、
神そのものという無分節を感じるだけなのだ。
広大無辺なとてつもなさのうちに、どこにでも、それを見出すことができた・・・
というのは、そういう重層性、多次元生。
(これについては、次回、詳しく考えよう。)
見出すといっても、〈神〉を、何らかの対象として
具体的にみつけるわけではない。
それは、かつてのことだ。
さっき言ったように、
自分も含めて、それぞれが
全て膨張しているから、
膨張していることもわからない。
ただ、その加速度感
どんどん感だけがある。
ジェットコースターに乗った時のような
あの感じだけが。
7. 幸せな喪失
でも、じゃあ、
その分節世界のよみがえりを
目の当たりにしているのは、
誰なんだ?
〈わたし〉なのか?
〈わたし〉は消滅したのではないか?
そう。
この世界のよみがえりを目の当たりにしているのは、〈わたし〉なんだ。
〈わたし〉の意識が消滅して、〈わたし〉の意識として甦る・・・
自我意識としての主体が消滅して、
なんでもないすっからかんの主体として、甦る・・・
「主体」というと、どうしても「体」があるイメージなので、
「主語」といったほうが、いいかもしれない。
空っぽの主語だ。
ジャンヌはよく「空っぽの運河」という表現を使う。
でも、「空っぽ」だったら、何を意識できるんだ?
「空っぽ」が「空っぽ」を意識するということだろう・・・
直感的な自覚というべきか・・・
その「空っぽの運河」である 〈わたし〉 の自覚を通して、
〈神〉が〈神〉の自己分節を意識している。
そういう透明な重層性、多次元性だろう。
見えるものも、見るものも、
結局、全部が神の自己分節、自己顕現なのだから・・・
*
ジャンヌは、この〈わたし〉を、
「持続する幸せな喪失」と表現する。
当時の多くの神学者たちは、
この〈わたし〉の重層性、多次元性が、理解できなかった。
喪失状態でずっといられるなんて馬鹿げていると、
彼らはジャンヌを愚弄し、糾弾した。
ジャンヌにすれば、そうした批判は、体験のない者の、見当違いでしかなかった。
そう言う人たちは、脱魂やトランスのような状態しか、
イメージできなかったのだろう。
だが、ジャンヌにすれば、脱魂現象(つまり、エクスタシー)だとか、
アヴィラのテレサで有名な「アロバミエント(法悦)」現象などは、
〈消滅〉に達する前の意識状態で起こることだ。〈わたし〉の体験は、それとは別だ。
海に放擲された一滴の水・・・
この比喩は、註(2)にもあるように
スーフィーも含め、神秘家たちの常套句だが、
ここでもやはり、ジャンヌの実感が
みずみずしく表出されている。
教会を出て、ジャンヌはモンタルジの街中を歩いている・・・
まるで、海の底に浮遊しているような、無重力感・・・
自分が海と同化して、無限に広がっていく・・・
海と同じ性質を、常に、さらに、持つようになる・・・
このどんどん感は、〈わたし〉のすっからかんを実感した時に
ダイレクトに直感する、
〈根源的ないのち〉の
無限のエネルギーと言ってもいいかもしれない。
*
誹謗中傷バッシングの只中で、
ジャンヌは、静寂者として花ひらいた。
泥に花咲く蓮のように。
8. 森
ジャンヌは、森の中で、ひとり、三昧に浸った。
このくだりを読むと、
静寂者ジャンヌの誕生が、森とともにあったことが、よく分かる。
モンタルジ近辺の、ロワール川支流ロワン川一帯に広がる森は、
優しく穏やかな森だ。
春だったら、新緑が鮮やかだ。
木漏れ日に、
白や紫の小さな花々の絨毯が、
夢幻の揺らめきへと誘う。
秋だったら、光り輝く黄葉の隙間から、
抜けるような青空が見え隠れする。
そんな森の静謐の中で、ジャンヌは瞑想していたのだろう。
私に起こったことは語りようもない・・・というくだりは、
ジャンヌの書き方のひとつの特徴だ。
ジャンヌは〈内なる道〉を歩む方法論については、
自分の体験を執拗に分析し、それをもとに言語化する。
しかし、〈消滅〉での根源体験そのものについては、決して語らない。
それは彼女にとってあくまでも語り得ないものだし、
語ってはならないのだろう。
註 1.マグダラのマリア 2.井筒俊彦の「ゼロ・ポイント」
1.マグダラのマリア
マグダラのマリアは、ヨハネ福音書では、復活したイエスが最初に声をかけた相手として記されている。イエスが「マリア」と呼んで、マリアが「ラボニ」(ヘブライ語で「先生」の意味)と答えたという、とても美しい場面だ。イエスの復活の最初の証人の役割を担った彼女は、最初期キリスト教運動で重要な役割を果たした「傑出した指導者」だったとされている。しかしその後、彼女についての歴史的記憶はミソジニー的に歪められ、聖書的・歴史的基盤もなく「悔い改めた売春婦」というイメージに塗り替えられてしまう。(山口里子『マルタとマリア イエスの世界の女性たち』新教出版社)
2. 井筒俊彦の「ゼロ・ポイント」
ジャンヌの〈消滅〉を理解するには、井筒俊彦の「ゼロ・ポイント」モデルがとても有効だ。以下、彼の『イスラーム哲学の原像』を中心に、紹介しよう。
この本は、西暦12世紀から13世紀にかけての神秘家・哲学者イブン・アラビーの系譜の「存在一性論」形而上学をもとにスーフィズムの観想体験を構造化する内容のものだ。井筒のもくろみは、この形而上学を「たんにイスラーム哲学史の一章とし」扱うのではなく、そこから「東洋的思惟の根源的なパターン」を抽出し、「東洋哲学全体の新しい構造化、解釈学的再構成」を図ろうというものだ。
井筒は、(「存在一性論」的な)スーフィーの観想体験のプロセスを、おおむね以下のような三角形で図式化する。
(分かりやすくするため、原図に「ゼロ・ポイント」「経験世界」を加えた)
なんか、うまく描けないなあ。
左側の、上に昇る矢印が、「上昇道」(「向上道」)ーアラビア語で「スウード(登り)」
右側の、下に降りる矢印が、「下降道」(「向下道」)ーアラビア語で「ヌズール(下り)」
底辺が、わたしたちの日常での、意識と存在の「経験世界」。
そこから上昇して、頂点の「意識・存在のゼロ・ポイント」に至り、
再び、経験世界へと下降する。
(井筒はこの図式化を、東洋的思惟の「共時的構造」として、広く応用するようになる。)
1 ) 上昇・「ファナー(消滅)」
スーフィーは観想修行によって、三角形の底辺の経験世界から、意識の深みへと入っていく。(あるいは、意識の深部が開かれていく、と言ってもいい。)つまり、図の「上昇道」をたどっていく。
(意識が深みに沈むのに、「上昇」というのがぴんと来なかったら、三角形の上下を逆にしてもいい。本書で、井筒は、意識のプロセスに特化するときは逆三角形を描いている。)
井筒は、この上昇道のプロセスについて、こう書く。
そしてさらに意識が深化すると、
主体も客体もなく、意識も世界も、いっさいの分節が消える。
これは、スーフィーズムでは、シッル(秘密)と呼ばれる意識の最深層の体験だ。
この「シッル」は、ジャンヌの「中心」に相当する。(このnote の静寂者ジャンヌ 19 参照)
「大海に落ちた一滴の水」の比喩は、ジャンヌでもおなじみの比喩だ。
そして、
この自我消滅の体験を、スーフィーたちは「ファナー(消滅)」と呼ぶ。
以上、上昇道から「ファナー」に至るプロセスについて、井筒は、こんなふうにまとめている。長くなるけれど、わかりやすいので紹介しよう。
2 ) 「ファナーのファナー」・「ゼロ・ポイント」
しかし、実は、よくよく考えると「ファナー」の先があるのだ。
つまり、「無を無として意識する意識すらない」(同 p.493)という境地に入らなければならない・・・
この「ファナーのファナー」、つまり「消滅の消滅」が、「意識・存在のゼロ・ポイント」だ。三角形の頂点だ。(ただし一般には、「ファナー」という用語は、この「ファナーのファナー」も含めて使われる。)
ここで、ようやく、さっきあったように、「絶対無分節の存在」と「(無)意識」が、ぴたりと一致する。
「道元の『身心脱落』の体験を思わせます」と、井筒は、さらりと指摘する。
3) ジャンヌの場合
ジャンヌの〈消滅〉は、同じ「消滅」という意味から「ファナー」に当てはめたくなるが、厳密にはそうではなく、「ファナーのファナー」に相当する。
「ファナー」のポイントは、ジャンヌにとって、〈消滅〉の手前の体験、つまり〈死〉の境地だ。
ジャンヌは、神秘の〈死〉の体験で、すっかり自我がほどかれ、完全な受動性に入った。(静寂者ジャンヌ 20 参照)
ここが「ファナー」だ。
しかし、ジャンヌによれば〈死〉の状態はまだ不安定で、自我が戻ってしまいかねないという。しばらく慣れの時間が必要だという。これをジャンヌは〈他界期間〉と呼ぶ。
そのうち、〈死〉さえも意識しなくなるという。つまり、〈死〉も死ぬのだ。
そこまでいって、はじめて絶対無分節が現成する。
そのポイントが、ジャンヌにとっての〈消滅〉であり、
スーフィーにおける「ファナーのファナー」だ。
4 )「バカー(存続)」・下降
さて、ここから下降の道に入る。
この「われ」の消滅の消滅は、新しい「われ」の甦りでもある。
井筒はこの新しい「われ」を「神秘主義的主体」とか、「超越的主体」と呼ぶ。
ジャンヌは、よく「古い〈わたし〉が死に、新しい〈わたし〉が生まれる」と、表現をする。
このプロセスについて、井筒はこう説明する。
このバカーは「存続」
ジャンヌにおける〈甦り〉だ。
井筒は、こう続ける。
「表層意識」は、三角形の底辺の「経験世界」での意識であり、言語分節をもとにした自我意識だ。
「深層意識」は、三角形の頂点の「ゼロ・ポイント」を経過した意識だ。ジャンヌの〈底〉だ。
つまり、ゼロ・ポイントとしてのファナー体験があるかないかで、決定的な違いがあるというのだ。
バカー状態に入って、意識が甦ると、その人の目の前には、かつてのように分節された「普通の現象的多者世界」・・・ジャンヌの言う〈多〉の世界が、よみがえってくる。
しかし、このバカー状態の意識は、あくまでもファナーを経過した意識であり、「すべての限定性を無化したところに成立した意識」だ。
つまり、すべての分節がほどけたところに成立した意識だ。
だから、表面的な分節世界を見ていても、同時に、その源泉の絶対無分節が透けて見えている。
このように、表面の分節的な〈多〉の世界を見ながら、それを顕現させている絶対無分節としての〈一〉を見透かしている到達者を、イスラームでは「双眼の士」と呼ぶ。
この重層的な見え方は、まさに〈甦り〉に入ったジャンヌの見え方だ。
*
だいたい以上のようなプロセスだが、
・・・ただ注意したいのは、ゼロ・ポイントに達することを目的化するわけでは、決してない。
「オレのほうが高いぞ」じゃないんだから・・・
いつだって、はじめの一歩が、最後の一歩だろう。
(そんなことを、クリシュナムルティが言ってなかったっけ?)
しかし、ゼロ・ポイントを経るか経ないかでは、まったく違うのだと、井筒は強調する。
*
以上をまとめて、改めて図にすると、こんな感じだろうか?
もうちょっと、微妙なところがうまく描けないので、とりあえず、整理として・・・
(紫色が、ジャンヌだ。)
*
というわけで以上が、井筒の「ゼロ・ポイント」モデルのスーフィー・バージョンだが、もちろん、井筒の「東洋」と、キリスト教のジャンヌとでは、違いがある。特に「無」の取り扱いについては、かなり決定的な違いがあると思う。
そもそも、一見、いかにも「非・東洋」のジャンヌは、井筒がもし仮に知る機会があったとしても、彼にとって最も遠い、関心の薄い存在だったのではないか。
井筒は、そのあまりに人格神的な性質からだろう、ある時期から、キリスト教思想からどんどん遠ざかって行った。(『神秘哲学』では、十字架のヨハネまで書く構想もあったのだが。唯一、クレルヴォーのベルナールについての珠玉の論考が、単品として残っている。[井筒俊彦全集 第二巻])
「共時的構造化された東洋哲学の諸伝統を、どうやって自分自身の思想的エネルギーに転換できるか」が、井筒の主たる関心ごとになっていった。 (「東西の哲学 [今道友信との対談] 井筒俊彦全集 第五巻)
ちなみに、ジャンヌの特徴である「受動性」も、人格神的な〈愛〉と関連している。大拙が浄土真宗の「他力」を通して、この「受動性」に着目したのに比して、井筒の哲学では「受動性」が前面に出てこないのも興味深い。
では、どうして井筒の「東洋」モデルが、ジャンヌ理解に有効に機能するのだろうか?
ひとつには、キリスト教神秘思想、特にジャンヌの系譜である「愛の神秘思想」と、スーフィズムとの間に、近親性があるからだろう。(もともと、一神教のキリスト教とイスラム教は、近い。さらに、キリスト教神秘思想とスーフィズムは、いってみれば姉妹関係にある。特に、キリスト教神秘思想のなかでもジャンヌの系譜である「愛の神秘思想」は、スーフィズムと親和性が高い。歴史的にも、イベリア半島で、ユダヤ教神秘思想を介して、スーフィズムからキリスト教神秘思想への影響があったとも言われる。)
また、ジャンヌが徹底的に実践的、プラグマティックなために、その体験知の言語化が、キリスト教の枠を逸脱して、図らずして、東洋的神秘道との顕著な「共時性」を持ったのかもしれない。
もちろん、井筒本人の体験知の深さが根底にあるだろう。
それにしても、井筒にとっての「東洋」とは、なんだろうねえ?
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?