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<本多静六博士のエピソード・その6(成功への道)>

 昭和2年、定年を迎えた清六は、最小限の財産を残し、全額寄付します。お金に苦労した清六は、”子どもが自分と同じような苦労をしないように”と考え、貯蓄に励みましたが、逆に”苦労をさせないことの方が子どもを不幸にする”と思い直したのでした。

 その後、関東大震災後の復興について、後藤新平から相談されます。「ミュンヘンで一緒にいた時に、スペインのバルセロナの都市計画のことを話していただろう?それを東京に置き換えて案を練ってくれ」と、いうものでした。案を作成して後藤に渡したところ、後藤は自分の考えた案だと公表して、総額41億円の壮大なプロジェクトの大風呂敷を広げてみせたのでした。

 逆に、清六にとって小風呂敷と感じさせた人物は渋沢栄一。事細かく説明を求められるので、いい加減な話は出来ない人だったようです。清六が出したアイディアも次々と形にします。秩父セメントや田園都市などは清六に詳しく聞いて形にしたものです。
 なぜ小風呂敷というかといえば、渋沢は自ら儲けを取らず、みんなに儲けを分けるような人物だったからだと語っています。

 著書の最後に出てくる成功への道7か条は下記のとおりです。
①常に心を快活にもつ(楽天主義)
②専心その業に励む(職業の道楽化)
③功は人に譲り、責は自ら負う
④善を称し、悪を問わず
⑤好機はいやしくもこれを逸せぬこと
⑥勤倹貯蓄(4分の1貯蓄の実行)
⑦人事を尽くして天命を(時節)を待つ

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