本多静六博士のエピソード・その4(大学生活)
当時の駒場(*現在の東京大学駒場校舎)は肥臭い農村部落。正門は前田侯爵邸正門側にあり、現在の正門は裏門でした。急な宮益坂では、しょっちゅう肥車が転覆し、道玄坂はおいはぎが有名な場所でした。
大学は全寮制でしたが、こんな場所だったので、運動会をやっても、見物に来る人も少なく、他校のように盛り上がりません。そこで、仮装して武者行列を行い、新聞などで大層な話題になります。
荒っぽい学生ばかりで、賄征伐(まかないせいばつ)といって、「+」のマークが寮内にこっそり張られると、ご飯を何杯でもおかわりしてからっぽにして、何回もご飯を炊かせるなどという、いたずらを重ねていました。その結果、大学側から”学生自治の力で賄いをどうにかしろ”と、食堂が閉鎖されてしまいます。
また、教え方が下手な先生は、文部大臣に直訴して追放。6人の先生を追い出したそうです。
そんな中、彰義隊の頭取をつとめた本多晋の一人娘を1番の成績の者に嫁がせたいという申し出があり、清六に白羽の矢がたちます。文武両道に優れ、日本で4番目の女医でもあった詮子(せんこ)に釣り合う男を求めての申し出でした。
何とか嫌われようとして清六は、招かれた食事会に、臭い汚い格好で登場。あっという間に3人分を平らげてみせます。
これが逆に気に入った本多は、清六の実家に赴き、母と兄から結婚承諾書を手に入れます。
さて、困った清六は、結婚の条件として、”大学卒業後にドイツに4年間留学を認めよ”という無茶苦茶な条件を提示するのでした。
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