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2020年8月に読んでよかったテキストたち

こんにちは、けんず(@kenzkenz61)です。

読んでよかったテキストを紹介する定期マガジン、今月もゆるりとはじめていきたいと思います。

1.出さない「悲しみ」の価値

何才の時も私は100の悲しみを100出すことはなかった。
それは人に迷惑をかけたくないという2割の綺麗事と、自分のプライドが高すぎるという8割の真実によるものだった。

引用させていただいた上記部分、何度も頷きながら読みました。

プライドが邪魔をして自分から100を出せないくせに、隠した8割を察してくれる人を欲しがる。そうかと思えば、わかっているよという顔をして隠した8割に土足でずかずか入ってくる人は拒絶したり。人間ってわがままだな。

目の前のあなたが、中々さらけ出せない8割を自ら話せるようにという願いを込めて、ただただ目の前の一人のために書いていくのだ、耳を傾けるのだという確かな決意を受け取りました。

聖人君子じゃなくったって、あなたのために寄り添える。

2.日記なのに社会的。社会的なのに日記。

昔からよく人の日記を読む。日記にはその人が「敢えて」切り取った日常と感情が満ち満ちていて、何を聴き、何を読み、何を見て、そして何を感じたのかが書いてある。他人の思考を覗き見て、今まで持ち得なかった感情や視点に気が付くその体験が、僕は大好きなのだよな。

フジイコウタさん(@repezen0819)がTwitterで毎日更新されている「#藤井ノ日記」。

決められた字数の中で、その日あった出来事描写から広げた風呂敷を見事に回収し、最後に愛と茶目っけのある着地をするスタイルがとても好きです。天声人語の良さと日記の良さが両方詰まっています。

日記を誰かのために書く必要はないのかもしれないけれど、読まれることになった日記ほど面白いものはない。

わたしも日記、書こうかなあと思うのは、もう何度目でしょうか。

3.世間が飛びつきそうな意義は無くても

小説を読むことで救われてきたから、いつしか自分が小説を作る側に回りたくなったとか、そういうストーリーがあればきれいにまとまるだろうか。私の場合は、きっかけらしいきっかけは何もなく、うまく答えることができない。
でも、決して適当にやっているということではなく、いつも一生懸命書いている。

『破局』で第163回芥川賞を受賞された遠野遥さんが、インタビューでよく聞かれるがうまく答えられないものへの回答(のようなもの、たぶん。)をまとめられた記事。

恥ずかしながら『破局』は買ったもののまだ未読なので、ここで遠野さんが記されていることを適切に汲み取れているかは自信がないのですが。

作品に何か教訓めいたものや、社会に対して訴えたいものを結びつけるのではないのだと、自身の書かれたものに誠実に、淡々と語る姿勢が格好よく、もっと遠野さんのことを知りたくなりました。

4.君は海に飛び込めるの?

君は
溺れてる人がいたら
救命道具は持ってきても
海に飛び込むことはしない
裸で泣いてる人がいたら
服をかけて話を聞くことは
あっても自分も脱ぐことは
絶対にない

泣いた。夜中に一人で号泣した。

「面白い」と聞いていた『ブルーピリオド』。kindleで1巻だけ購入したままになっていたのを思い出し、最新刊まで読み切ってしまいました。

主人公・矢口八虎が、自分が美術の道に進むきっかけを作った張本人、ユカの異変に気付き、電話する。「今から会いに来てよ」という申し出に、こんな夜遅くはさすがに…と戸惑う主人公に対して言い放ったのが冒頭のセリフ。

要領はいいけれど、本気で打ち込むほど好きと言えるものが無かった主人公が、美術に魅せられ、自分の好きに正直になり、腹を決め努力していく姿に、自分のことを重ねずにはいられませんでした。

5.俺が一番だという思いがあるか

メフィスト賞は「一作家一ジャンル」。「これは私にしか書けません」という、強い思いと新しさがあるものを求めます。「先行作から影響を受けているけれど、この作家で読みたい」と思わせるものが欲しい。ただし、ひとりよがりにはならず、他人を楽しませるもので。

わたしが中学生時代好きだった森博嗣さんや西尾維新さんなどを輩出してきたメフィスト賞についてのnote。

選考委員の目線から、どんな作品が選考に残るかという話の中で、ページ数とかテンポとか、構成とか、そういったもの以上に「私にしか書けないもの」という点に重きを置いていることが伝わります。

憧れや、影響を受けた好きな書き手がいたとしても、「この内容なら俺が一番だ。だから読んでください、きっと面白いから」と言える貪欲さが沸々と煮えたぎっているか。何かを書いて、それを誰か読んで欲しいってたぶん、こういう気持ちの良い貪欲さなのだと思います。

6.かけ算を生み出す場

仕事をしているときに、誰かがまわりにいることで、がんばろう、と思うこともわかりました。誰かの目が近くにあると、成果を出すことに自然と前向きになれる。共同作業はひとりひとりの作業の合計ではない。かけ算でした。組み合わせたら倍になっていく。ところがテレワーク下だと、足し算の感触です。それぞれ別々の場所で生み出したものを足し算すれば確かにモノはできるのですが、決してそれ以上にはならない。

弊社も5月までのテレワークが終わり、通常通りオフィスに出勤する体制になり3ヶ月が経ちました。

家でもどこでも、ある程度仕事ができることはわかったし、通常出勤に戻った今、また在宅がいいなと感じる日もあるのですが、誰かと一緒に仕事をすることの究極はこれなのかなと思います。

何でもオンライン化することから始まり、オンラインとオフラインの共存への模索を経て、どちらがより「心地よいか」を再び考える時期に入っているのかもしれません。

会社や社会に枠組みを作ってもらうだけではなく、自分の感情に正直に、場の有り方を考えていきたいと思います。

7.見失った日常を見つけ直す3日旅

「日常」はいつも、目の前をすごいスピードで通り過ぎていく。この3日間も、ある種、日常の繰り返しだった。けれど、神楽坂で暮らす時間は、いつもよりもゆっくりで、日常をよく見渡せた。日常のゆたかさがよく見えた。そしたら、いろんなことが起きていた。

はじめて訪れる町で、3日間同じ日をループさせてみたお話。

目まぐるしい日々で忘れてしまいそうな「日常」とか、刺激がなくて変わり映えのしないものだと思い込んでしまう「日常」とか。確かにここにあるのにぞんざいに扱ってしまうものを丁寧にすくっていくような、そんな素敵なnoteでした。

日常って本来、ゆたかなんだと思います。とっても。

そのゆたかさにちゃんと気付くことができるのは、少し難しいけど大切で、忘れちゃいけないことなのだと思います。

***

8月が終わりました。

8月が終わるとなんとなく夏も終わるイメージですが、今年は本当に、月の切れ目が季節の切れ目であるように、9月に入った途端に涼しくなった気がします。

今年は、夏らしいことは何もできない空虚な夏休みになるかなと思いましたが、気の許せる友人と夏の京都を歩いたり、河原で手持ち花火をしたり、ちゃんと思い出も残りました。

そうそう、今回紹介したテキストには入れませんでしたが、最近短歌にハマっています。季語はなくてもいいのですが、夏の歌をいくつか詠みました。

日々の移り変わりに敏感になって、ひとつひとつ感動していきたいですね。

それではまた来月。

サポートをいただいたら、本屋さんへ行こうと思います。