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書くことで“なにか”になりたいって、ほんとう?

「けんずって、書くことが大好きで大好きでたまらないってわけじゃないよね。寝る間も惜しいほど書くことが好きなら、もっと書いてると思うのよ」

先週末に居酒屋で言われたことが、まだ引っかかっている。ビールを流し込んで話題を逸らそうとしたけれど、それはいつもより苦かった。

「書くことの対価としてお金をもらう、という意味での出口を見つけないと、ボランティアか趣味でしかないよ。書きたくてたまらないわけじゃないのなら尚更」

続くことばで追い打ちをかけられた。その通り、まったくその通りだという気持ちしか出てこなかった。

文章を読むことは好き。自信を持って言えると思う。書くことも、たぶん好き。けれど、情熱を持って、溢れんばかりの執筆欲とか、なにかを成したい気があるかと言われると、正直ぼんやりしている。

あの日のわたしはこんなことを言っていたけれど、ほんとうだろうか。

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どうして、わたしは書きたいのか。

今まで書いたものを振り返る。多くは、自身の過去について。それも、抱えていた陰鬱とした気持ちや、あのときことばにできなかった、ぼんやりとしていたものたちを整理していく作業。そして最後は大抵、あまり後味の良くない余韻を残したまま、結論を出せずに収束していく。

大人になっていくにつれて、意見をすぐに述べることができなくなっていった。小さい頃は、燃える正義感のままに、簡単にことばにできていた。けれどだんだんと、物事もひとの感情も、複雑に絡み合っていることを知り、ことばが意図しない形で伝わって傷つけたり傷ついたりすることを体験し、自分の中に渦巻くいろんな感情や可能性を、一つずつ吟味して天秤にかけないではいられなくなっていった。怖くて。

ひとのこころは、そんなに簡単に言い切れないから、なるべく誤解がないように、取りこぼしがないように、少しでも多くのことばで装飾して、形をつくってあげて。そうしてやっと、自分のからだの外に放つことができている。

あのとき声に出せず、ぐっと押し殺した感情とか、一言で言い表せなかったこころの機微に、一つずつことばを当てはめていく。それがわたしにとって、文章を書くということ。

それはもしかしたら、これはこうだ、という明確な信念みたいなものが、わたしの中には無いからなのかも知れないけれど。

じゃあ、なにを書きたいのかと聞かれたら?

わたしが惹かれる文章は、声に出したときの語感の良さだったり、ことばとことばの結びつきの強さだったり、それから、こころ揺さぶられる、芯の強いメッセージだったりする。

そしてなによりも、書き手の好きがつまっていて、読んだあとに次の一歩を踏み出しはじめられるような、ぽんと優しく背中を押してくれることばたちが好きだ。

文章を求めているときは、みな自分の中の見えない何かと戦っていて、それを倒す方法を探し求めている。

読んでいるときは、誰しも孤独に自分と向き合わなければならないけれど、芯のあることばに出逢えたときに、それは一生応援してくれる存在になる。

人生を変えるような、なんて大それてなくていいから、昨日より今日、今日より明日と、背中を押せることばを書きたい。それはもちろん、綴るわたし自身さえも前向きにしてくれるような。陰鬱さを言語化させて、行き場のない余韻に逃げないように。

わたしはまだ、自分を整理するためのことばを綴ることでいっぱいいっぱいなのかもしれない。自分のこころを整理するためのことばを、誰かのための段階へとステップアップさせるのが、今かもしれない。

「何のため」的な問いが胸の中で大きくなっている今はきっとチャンスだ。変わるチャンスだ。とことん「何のため」を追求してみよう。

2020年2月、春が待ち遠しくなる頃の、わたしの文章に対する思いの記録。

サポートをいただいたら、本屋さんへ行こうと思います。