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遊ぶ

もう秋と言っていいのか、夏と秋の間と言っていいのか定まらない感じだけれど、河川敷の寂れた公園は風が心地よい。

ベンチではクラシックギターを弾く人、近所のおじいちゃんだろうか?早々と氷と焼酎を持ち込み独酌している。遠目で見てもうまそうだ。うまそうだと思うだけで、わたしは全く飲めない。
まるで小説に出てきそうな風景だ。

運動不足の子どもたちが遊ぶの見守りながら、わたしはベンチに座りnoteを開く。

若いうちは遊べと良く若い頃言われたというか、そういう言葉を良く耳にしていた。当時は意味がわからず軽く流していた。

そんなことを思い出していた。

今のうちに遊び倒しておけという上っ面だけの解釈しかしていなかったし、それほど遊びたいと思ったことはないし、遊び方というものを知らなかっし、楽しむという心持ちにはかなかなれなかった。人付き合いが苦手だという性格的なものもあるだろう。

とにかく楽な方向で面倒なことは避けるだけ避けるという、こなすだけの生き方だったように思える。能動的な行動は少なかったような気がする。

「遊ぶ」を考えてみる。とりあえずGoogle先生に聞いてみる。

1.(おとななら実生活の煩いを離れ)物事を楽しむ。

2.有意義な働きをしない状態にある。

この意味合いに対して異論はなだろう。

そして、1人で遊ぶ、2人で遊ぶ、数人で遊ぶ、大人数で遊ぶということも重要だと思う。自分はどういうスチュエーションが1番楽しめるのか。自分というものを少しでも把握する為に。

遊ぶ相手がいる場合、相手への配慮が必要になってくる。時には摩擦が生じるだろう。どうやったらより楽しめるか考えるだろう。

その関係性の中で遊ぶことを通して、物事への対処の仕方、反応の仕方、能動的に働きかけた方が良いのか否か判断する経験を多くしておきなさいということだったんだな多分。。。

そんなことを考えていた今日の夕方。もしかして、こういうことってみんな若いうちに気づいていたのか?


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