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不登校の生徒は優秀なのかもしれない

不登校と聞くとネガティブなイメージを抱く人も多いと思いますが、最近僕が思うのは逆に不登校の生徒は優秀かもしれないということです。

義務教育における教師の諦め

バンコクでの生活を終えて僕は小中高の恩師に会いに行った。20年ぶりに会う先生、10年ぶりに会う先生、5年ぶりに会う先生。義務教育で習ったすべての先生に会って思ったことは「日本の教育は変えられない」ということでした。いくら教師側が勉強して生徒のことを考えて生徒指導に励んでも常に年配教師や教育委員会の板挟みで子供の個性を生かすような教育は現実的に不可能。中には「つぶしのがきかない職についてしまった以上、もう惰性でやるしかない」と生々しい話も聞いた。

SNS・ネットの普及による分断

教師と生徒の歪(ひずみ)となっているのはSNSを含むインターネットの存在。老人が主体となった学校側がそれらしきカリキュラムを組み立てても、スマホネイティブ(生まれたときからスマホを使っている層)の世代は生徒によっては学校が考えている以上に深い情報にたどり着ける。

学校の先生よりもわかりやすく教えてくれるYouTuberの先生、定期的に全国で発生している変態教師による事件。SNS以前の時代では入手することができなかった情報を生徒の関心がおすすめ機能によって自動的に入手することができる。教育現場にタブレットが導入されても生徒には低スペックで何も使えないことはすぐバレる。

この現実は変えようとしても変えられない。

不登校生徒との接触と発見

昨年の冬に不登校の生徒が通うとある施設に行く機会があった。そこには精神的な問題で集団行動ができなかったり、常に自分の趣味だけにしか時間を費やすことしかできない高校生が20名ほど集まっていた。

僕は海外経験のもつIT人間として招待されたため、生徒の表情を見ながら最近のインターネットサービスや今と昔のゲームの話などをしながらまったりと時間を過ごした。円卓で話し始めてから約30分、少し専門性のある言葉が出てしまったこともあって生徒は少しずつ散り始めた。1時間ほどたったころには7人くらいになっていて、何もせずにこちらを見続けて話を聞いてる生徒やiPadで絵を描きながらチラチラと画面を見せてくる生徒など、みるからに個性が強そうな生徒にかこまれていた。

その時に僕が丁度しらべていたDiscord(ゲーム好きの中で使われているコミュニケーションプラットフォームサービス)の話をした際、一人の生徒が「Discordオタクは彼だよ」と一人の男子生徒を指さした。最初からずっとこちらをみていた生徒だった。彼は昔からゲーム好きで最近はゲームをプレイする以上にこのツールにハマっていて使い方はほぼ熟知していた。気づけば僕は話す側から聞く側に変わり、すぐにでも就職できるくらいのスキルを持つ彼の話に圧倒されていた。

2つのタイプと2つの選択

文部省も発表しているとおり昨今の日本において不登校問題は大きな社会問題になっている。でもちょっと考えてほしい。高齢化社会という環境の中で学校で生徒に指導する先生と生徒のギャップはで日に日に広がりつつあり、社会人におけるIT教育も遅れていることから、たとえ生徒が世の中のためになるスキルをもっていても気づかないことが多い。これはある意味仕方がないことでもある。

不登校生の2つのタイプ

不登校生徒が集まる施設での時間を通じて気づいたのは不登校生とは大きく分けて2つ存在する。コミュニティー障害などの精神的な病で学校に行けない生徒、そして、現代の学校の仕組みに呆れて学校に行く時間がもったいないと考えいる生徒。前者は医学的な対処法で少しずつ解決していく必要があるが、後者は雑学などを教えて本人の興味や関心を見つけて上げることなのかなと思う。

不登校生への2つ選択

不登校になりつつある生徒を抱える先生が考えることは2つ存在する。1つはひたすら生徒を開放し自由に考えさせること。年齢の影響で関心力が低下した先生は生徒たちの数年後を考えることはできない。たとえ校則をやぶったとしてもすべてを許してただ大人として矯正させるという意識は無くした方がいい。もう一つはスタディサプリ系の近代教育コンテンツを取り入れて時代トレンドを研究しながら生徒との間でジェネレーションギャップを感じなくさせること。たとえ生徒の話し方が荒くても「生意気」とだ思わないこと。

不登校生徒に対する考え方

僕の恩師は「朝8時〜17時までは一応先生と呼べ、その時間以外はオヤジと呼べといっていい」と生徒との距離間をうまく保っていた。

いまだに「最近の学生は…」という言葉耳にするがそれを言っている大人は最近のことを学んでいるのだろうか。現代においての"先生"とは"ただ先に生きている人"なのかなとも思う。

昭和、平成、令和の時代が共存するギャップありありの時代だからこそ、少し先に生きた人間として常に寛容でありたい。僕は仕事を通じて20代から60代の人と接して毎回なにか発見できることにいつもワクワクしている。

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