合理主義者が気づいた「同居人」と「結婚相手」との決定的な差
自分は合理主義者です。
そんな自分が、何がパートナー間にとって「合理的」なのか、というテーマを真正面から考えた時に、恋愛感情とはこういう感覚なのか、と、初めて気づいた話を残しておきます。
自分はどういう人間なのか
自分はとにかく「合理的」な判断をしたい人間です。そして、かなりの男女平等主義者だと自認しています。
どうしても、出産・一部の育児こそ生物学的に女性がせざるを得ないですが、その後の育児については女性がやるべきとも、一方で仕事は男性がやるべきとも、全く思っていません。
各パートナー間で話し合い、最もパフォーマンスが発揮できる役割分担をすればいいんじゃないかと常日頃から思っています。仕事に適性がある女性も、家庭に適性がある男性も、どちらもいますし。
その上で、自分は普通に家事も仕事もできる人なので、同様に、自分のパートナーには家事も仕事もできる人であってほしいと思う派です。
「合理的」な役割分担とは
自分のパートナーに対しては、「家庭に対する貢献度合い」が平等であってほしいと考えていました。これこそが「合理的」だと、自分の信念に自信さえ持っていました。
例えば、年収が同額だったら、家事の分担も半分ずつ。
例えば、年収が 7:3 だったら、家事の分担は 3:7 にする。
これが自分の中での「合理的」な判断です。
特に後者は異論も色々とあるかもしれませんが、これはこれで、「合理的」ではない、と真っ向から批判するのは難しいと思います。
どの観点で「合理的」であるべきなのか
今の妻と出会い、最初のうちは、上記の「家庭に対する貢献度合い」が平等であることが「合理的」だと考え、結婚したらそういうルールにしようと考えていました。
ところが。
彼女は専門職で、人の生死を左右する現場で必死に働きながら給料はそこまで高くない。疲弊しながらも人の幸せのために身を粉にして働く彼女。
そんな彼女を見ているうちに、何が「合理的」なのか、あらためて考えさせられました。
・・・
結局自分が気づいたのは、「家庭に対する貢献度合い」の平等ではなく、「精神的負担」が平等になることが「合理的」なのではないかということでした。
本人の努力や能力の問題とは別にたまたま志向していた分野の違いもあり、ぶっちゃけ年収は全然自分の方が上なのですが、精神的負担は同程度だと感じ、
それであれば、家事も(得意領域で分担しつつも絶対量としては)同程度にしよう、ということに落ち着いたのでした。
「合理的」という言葉には色々な意味がありますが、定義のひとつとして「ある尺度で平等」ということが言えると思います。
その「ある尺度」には色々な軸があり、「経済的な尺度」ではなく、「精神的な尺度」もある、ということに初めて気づいたのです。
そして、そう思える相手、そう思ってもらえる相手こそが、単なる「同居人」ではなく、恋愛感情を持った「結婚相手」になるのだと思いました。
つまり何を言いたいか
これは恋愛に限った話ではなく、仕事や人生の話にも拡張できる話のように思っています。
「合理的」な判断を常に行うことは、とても大事です。人は考える葦であり、理性こそが人を人たらしめているものです。
一方で、人は、自分でもびっくりするくらい、合理的でないように思える判断をすることがあります。
ただ、それは本当に「合理的」ではない判断なのでしょうか?
単純に、「何を合理的とするか」の軸がこれまでの自分の常識から変わっただけ、なのではないでしょうか?
そういう、新しい評価軸に自覚的になることで、新しい自分に気づき、その後の成長につながるのではないか、と思います。
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そんな我が家は、もうすぐ結婚して10年。
これからも、「合理的判断」の結果の、二人を尊重し合う生き方を続けていきたいと思います。
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