便利さを追求することが正義とは限らない
70代の母親から責められました。
愛用しているiPadのOS自動アップデートで画面が変わってしまったために、せっかく覚えて使い慣れた画面ではなくなってしまったためです。
もちろん、OSの自動アップデートは使い勝手の向上(便利さの追求)やセキュリティの面からも重要なことはシステムエンジニアである私は十分すぎるほど理解しています。
しかし、私の母親からすれば、「大きなお世話。余計なことをしないで。」と言いたいところでしょう。
他方、消したはずのTVが深夜に勝手に点いてしまって困っている。家族からは「ちゃんと消してと何回も言ったはずなのに」と責められてしまった。という話も耳にしました。
これは、HDMI機器連動、HDMI電源連動が動作したためと考えられますが、もちろん本来は使い勝手向上(便利さの追求)のために搭載されている機能です。
しかしながら、こちらのケースもそのような機能を求めていなければ大きなお世話ですし、むしろ余計な不便さの発生、争いのネタを生み出してしまう可能性も考えられます。
「では、不便なままで良いと言うのか?」
いいえ、私の考えは少し違います。闇雲に便利さの追求を行うのではなく、<その人にあった便利さの追求>をしていくべきだと考えます。
例えば、吊るしのスーツとオーダーメイドのスーツ。どちらがその人の身体にフィットするでしょうか。
言うまでもなくそれはオーダーメイドです。そのようにその人にベストフィットした便利さを追求していくべきだと考えます。マス相手でなく、<あなた>相手にすべきです。
本稿で持ち出しましたiPadの画面、そしてHDMI電源連動についてはいずれもソフトウェアの問題です。
ソフトウェアやメニューはその人にあった形であるべきです。それが私の結論です。
今後も私は「あなたのためのシステム」を開発し続けたいと考えています。
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